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Rsun,株式会社アールサン,データベース中心主義,七の日コラム,データ駆動型データベース,R3D(京都東山;昔なつかしい風景)  
   
   
   

    ●平成16年09月07日 お陰様で株式会社となりました

 

 早いもので、有限会社としてアールサンを設立してからちょうど3年半が経ちました。その間、皆様からの暖かいご支援によって会社も発展し、このたび増資を実施して株式会社となりました。

 これも、ひとえに皆様がたのお陰と、心から感謝申しあげます。本当にありがとうございました。

 さて、当社も株式会社としてこれから新しい展開を図って参りますが、これからの時代は、果たしてどのような時代となるのか気になるところです。

 そこで、今回は、組織変更もしたことですので、これからの新しい時代の予感というものを語ってみたいと思います。

 何か予感を語ると言うと、予言者みたいに思われるといけませんので、これはあくまでも私が日ごろ感じていることを語るだけですので、単に聞き流していただければいいのではないかと思います。

 第一の予感――ますます変化のスピードが速くなる

 第二の予感――個人が重んじられる時代がやってくる

 第三の予感――精神的なるものが重んじられる時代がやってくる
            (心の時代の到来)

 1.ますます変化のスピードが速くなる

 これは、誰もが感じていることですが、人類の記録されている歴史が4〜5千年程度(*1実際はもっと古いが)だと致しますと、ここ100年間の歴史の動きは、超高速と言えるのではないでしょうか。

 人間は、1780年代に、ジェームズ・ワットによって蒸気エンジンが発明されるまでの間、数千年にわたって馬に乗り続けてきました。その蒸気エンジンが、その後のガソリンエンジンの発明まで、動力の中心となりましが、それに約100年間を要しました。

 そのガソリンエンジンが、1903年ライト兄弟によって飛行機に積み込まれるまでには、約20〜30年しかかかりませんでした。そして、それが、第一次世界大戦の飛行機による空中戦に発展し、第二次世界大戦では、ドイツがジェットエンジンやV1、V2と呼ばれるロケットエンジンを発明するまでの時間は、10年から20年ぐらいのものでした。

 そして、1969年に、アメリカがアポロ宇宙船で月に宇宙飛行士を送り、人類が初めて月に降り立ったのです。

 このスピードは、何と考えればいいのでしょうか。

 電気の世界もしかりです。終戦直後には、ラジオしかなかった時代が、まず、白黒テレビが世に出され、そして、数年後には、もうカラーテレビとなっていました。そして、今や液晶テレビや有機テレビとなっています。

 さらに、電話の世界では、昔はダイアル式の黒電話で電話をかけましたが、それがプッシュボタン式となり、そして、肩掛け携帯電話となりました。その携帯電話は、1990年のころのものでしたが、それが1995年にはもう手の平に入る携帯電話となり、そして、現在のカメラ付きの携帯電話になるまでに、たったの数年を要するだけのものでした。

 インターネットの世界もしかりです。これほどインターネットが普及したのは、マイクロソフト社からWINDOWS95が世に出された1995年以降のことであって、まだ10年も経っていないのに、もうインターネットなしでは仕事ができなくなったと言って過言ではありません。

 要するに、この進歩や変化のスピードは年々加速度的に速くなっているということなのです。

 では、なぜ人間の知能指数は、それほど高くなっていないと言うのに、このように加速度がつくのでしょうか。

 なぜ、昔のような速度での進歩が進まないのでしょうか。

 人々は、年々それほど焦るようになってきたとでも言うのでしょうか。

 その理由を考えてみますと、知識というものは、どうやら、単純な足し算で効果が出るものではないと思われるのです。

 すなわち、知識が2倍になったら、2倍の進歩がなされるのではなくて、3倍も4倍も、あるいはそれ以上の進歩がなされるような増幅作用、あるいは相乗効果があるのではないかと思われるのです。

 ですから、人類の進歩は、知識が累積されてきたなら、それらの相乗効果としてますます進歩の速さを増幅させてきたと言えます。

 ならば、これからどうするか。

 それは、知識を得るしかありません。知識を得れば得るほど増幅作用があるなら、それを、多く得るように努力するしかないということです。

 知能指数を倍にすることは難しくても、知識を倍にすることはそれほど難しくありません。それだけの書籍を読めばいいのです。それだけの勉強をすればいいのです。

 かつてカントの蔵書の数は、3千冊程度と言われていました。もし、現代人で、3千冊を超える本を読んだとするならば、カントを超えることも可能だと言えるかも知れません。 

 そのような時代を迎えて、やはりそれに対応した備えをすることも、新しい時代の修行だとも言えるのではないでしょうか。

 以上、新しい時代の予感の一つについて私の感じたところを述べてみました。

 誰でも、携帯電話やパソコンを見てその進歩の速さが、年々早くなっていることを否定できません。そこで、大事なことは、それをそのままにせず、なぜだろうと考えることも大切なことではないでしょうか。

 それでは、次回は、第二の予感について述べてみたいと思います。(竹内)

(*1)『太陽の法』第一章(幸福の科学出版)

   ●平成16年09月17日 個人が重んじられる時代がやってくる

 先回のコラムでは、新しい時代の予感の第一として、「ますます変化のスピードが速くなる」と題して、私の感じているところを述べました。そこで、今回は、その第二として、「個人が重んじられる時代がやってくる」ということについて述べたいと思います。

 2.個人が重んじられる時代がやってくる

 アルビン・トフラーが著した「第三の波」の本の中で、産業革命以降、学校において集合教育が進められた理由が述べられていました。

 つまり、産業革命によって工場での機械による大量生産が可能となり、経営者は大量の従業員を雇う必要が出てきた訳ですが、残念ながら人々は工場で作業ができるようには訓練されていませんでした。そこで、集団で規律正しく行動することができるように、子供の時代から訓練するために学校教育がなされたのだと・・・。

 なるほどなと思いました。学校というところは、もちろん勉強をするところですが、もう一方において、集団での規律や行動を身につけるところでもあります。

 例えば、幼少時においては、子供たちは皆ばらばらで、なかなか先生の言うことを聞きません。しかし、彼らが学校に行くことによって、授業が始まる時間には席につくことや、先生の号令によって行動をすることなどを学びます。

 また、この集団で行動する能力は、工場で作業をする場合だけでなく、軍隊においても必要な能力でありました。つまり、学校教育の役割は、子供たちが将来工場で働いたり、軍隊に入って行動することができるように訓練するところでもあったのです。

 もし、工場の労働者や軍隊の兵隊が、上司や上官の言うことを聞かなかったらどうでしょうか。また、工場の流れ作業で、ラインの開始時間に皆が揃わなかったらどうなるでしょうか。

 産業革命以前の社会では、家内工業的なスタイルでしたので、その中に他人と違ったことをしている人がいても別段問題はありませんでした。しかし、大規模な工場では、そのような人が一人でも居ると、ライン全体が止まってしまい、大変なことになるのです。

 ですから、産業革命以後の社会では、個人の自由を制限してまで全体の利益を得る方向へと、価値観が変わっていったと言えます。

 まだ、そのなごりがあります。できるだけ個人を目立たなくするために、制服を着たり、朝、ラジオ体操をしたり(作業のための制服、安全のための体操は除きます)、また、ある国では、いまだにマスゲームが盛んなところもあります。

 もちろん、集団行動が取れない人には、第一段階としてこのような訓練が必要なことはあります。しかし、自分で自分を律することができるようになった人に対しては、その人の可能性を制限することになり、会社や社会全体の進歩や発展を損なうこととなります。

 最近、企業ではタイムカードが廃止され、どれだけの時間を働いたかではなく、どれだけの仕事の成果を出したかで評価されるようになってきました。このことは、産業革命以降、人々を画一的に管理する形態から、個人の一人ひとりにスポットを当てて評価していこうという動きに他なりません。

 つまり、人間の成長の過程として、まず、幼児に見られるように、自分勝手に行動するというバラバラの状態から、学生に見られるように集団での行動が出来る状態へと進み、そして、それが出来て今度は、自分の責任のもとで、自分の個性を活かした自由な行動ができる状態へと進歩していくのではないかと思います。

 このように制服を脱いで各個人の個性を活かした行動ができるようになった背景には、もちろん人々の意識の進歩があったからこそですが、情報処理技術の役割も大きいと思われるところがあります。

 つまり、人間の一人ひとりに注目して、その人を理解するということは、人間の数が少なければできることですが、多いと中々そういう訳にはいきません。例えば、従業員が何千人もいたならば、これは無理というものです。

 しかしながら、情報処理技術の発展のお陰で、一人ひとりのデータが蓄積され、各人の成果について公平に評価されることが可能となったのです。要は、皆が金太郎飴のように同一に扱われるようなことはなくなったのです。

 実は、このことは、嬉しいことでもありますが、また同時に厳しいことでもあります。

 たとえば、皆でみこしを担いでいるとします。今までは、誰がどれだけの力を出しているかが分からなかったので、自分一人ぐらいみこしにぶら下がっても、ばれることはありませんでした。また、逆に一生懸命に担いでも全体の成果となってしまい、感謝されることはありませんでした。

 しかしながら、これからは、大勢の中でもきちんと個人の働きが認識がされるようになります。

 つまり、それだけ個人が見える時代がやってくるということなのです。

 従来の時代では、個人を目立たなくするために、団体行動を取ったり、皆同じ制服を着せました。しかし、これからの時代は、ますます個人をガラス張りにして、見えるようにしていこうとする傾向が強くなります。

 これは、個人にとってチャンスでもありますが、自分の責任が明確になるという意味では、厳しい時代がやってくると思ったほうがいいと思います。やはり、神は、私たち人間の無限の向上(*1)を期待されているのだなと、改めて感じた次第です。

 それでは、次回は、第三の予感について述べてみたいと思います。(竹内)

(*1)『永遠の仏陀』第五章(幸福の科学出版)

   ●平成16年09月27日 精神的なるものが重んじられる時代がやってくる

 

先回のコラムでは、新しい時代の予感の第二として、「個人が重んじられる時代がやってくる」ということについて述べました。そこで、今回は、その第三として、「精神的なるものが重んじられる時代がやってくる」ということについて述べたいと思います。

 3.精神的なるものが重んじられる時代がやってくる

 日本は、先の世界大戦の苦い経験によって、多くのことを学びました。つらい経験を通して、もう二度と同じ過ちは犯すまいと、深く魂に刻み込んだのです。

 つまり、過去の日本では、精神的なるものをあまりにも重視したがために、国民全体がつらい思いをしたので、新しい時代ではこの精神的なるものを優先して考えることは止めようと思ったのです。

 例えば、以前の時代では、疲れたという思いが出るのは気合が入っていないからであり、気合を入れればまた元気になると思われていました。ですから、学校では先生が生徒に気合を入れたり、軍隊では上官が部下に気合を入れるという暴力的なことが、ごく一般的に行われていました。

 しかしながら、気合と精神力だけでは物量に勝るアメリカに勝つことはできませんでした。やはり、鉄砲も弾薬も、そして、戦車も戦闘機も空母も必要だったのです。

 それを、いやというほど経験した日本人が、もう二度と同じような間違いを犯すまいと思ったのも無理のないことでした。

 それで、戦後企業では、「もの」を重視し、その結果売上げ至上主義となりました。また、国の行政においても、まず「もの」が豊かになる政策が盛んにとられました。

 そのお陰で、日本は奇跡的に戦後の復興を果たし、さらに、それだけに止まらず経済大国として国際的にも認められるに至ったのでした。

 しかしながら、この精神的なるものから物質的なるものへの方向転換は薬が効きすぎたのか、「羹(あつもの)に懲りて膾(まなす)を吹く」のように、行き過ぎたところがあったことも事実です。

 その結果、人々は、唯物的なものの考え方に走り、あの世の存在を非科学的だと言って否定し、目に見えるものやお金だけが信用できる存在であるという自分の価値観を築いていきました。

 では、それによってどのような社会が現れたのでしょうか。

 まずは、公害の蔓延です。企業は、自分の利益さえ得られればいいと思ったのです。

 そして、その公害は大きな社会を引き起こし、市民による大規模が抗議運動によって、企業も次第に目覚めていったと言う歴史がありました。

 そして、その次は企業による不祥事の発覚です。腐った牛乳を出荷したり、輸入牛を国産牛と偽って補助金を詐取したり、はたまた出荷した車に欠陥部品があるにもかかわらず、これを隠していたなどの不祥事が続発しました。

 これらも、戦後、日本の企業が精神性をおろそかにして、利益至上主義へと走った弊害だったと言えます。

 ところが最近、人々は、今までの自分たちが採ってきた考え方に誤りがあったのではないかと思えるようになってきたのです。

 つまり、戦後、私達は、戦前の考え方の反省から、前とは逆に物質を重視し、精神性を軽んじてきたが、やはりこの考え方にも間違いがあったのではないかと・・・。

 すなわち、精神性のみを重視する考え方も、逆に精神性を極端に軽んじる考え方も、その双方に真実がある訳ではなく、その中道(*1)にこそ真実があるという思いになってきたということではないかと思います。

 だからこそ、今年発生した大規模な洪水災害のときに、困っている人たちを救おうとして、全国から多くのボランティアが集まったということではないでしょうか。無報酬であっても、精神的なるものを大事と思うからこそ集まってこられたのではないでしょうか。

 まさしく、このことは、これから「心の時代」がやってくること証そのものではないかと思います。

 しかしながら、これから来るところの「心の時代」は、過去、心の修行を求めて、寺院で座禅をしたり、お遍路さんのように札所巡りに見られるような「心の時代」ではないような気がします。

 つまり、従来の心の時代では、自分自身の心を清浄にすることが目的でありましたが、これからの心の時代では、人々を幸せにするという非常にダイナミックな心の時代がくるような気がします。

 つまり、過去の修行者が求めた「無我」(*2)という心境から、積極的に他人を幸せにするという「愛」(*3)と言うダイナミックな行動性がそこに見られるのではないかと思います。

 従って、これからの心の時代は、昔の修験者のようなスタイルで心の世界を求めるのではなく、マザーテレサのように人々を救うための行動をともなうスタイル、つまり菩薩行によって心の世界を求める時代がやってくるのではないかということなのです。

 すなわち、時代は繰り返すが、それは単純再生産的な繰り返しではなく、必ずその中に以前の時代よりも進んだ部分を持っているのだということだと思います。 

 これは私の予感ですが、これからの優れた人とは、昔のお坊さんのスタイルと現代の経営者を合わせたようなスタイルになるような気がしてなりません。これは、私だけの予感ではないはずです。皆様もそう思っておられるのではないかと思います。

 それでは、次回もお読みいただければと思います。(竹内)

(*1)『悟りの挑戦(下)』第一章(幸福の科学出版);(*2)『悟りの挑戦(上)』第四章(同);(*3)『太陽の法』第三章「愛の大河」(同)

   ●平成16年10月07日 心の時代がやってくる(その1)

 先回のコラムでは、新しい時代の予感の第三として、「精神的なるものが重んじられる時代がやってくる」と題して述べました。ところが、画面の関係であまり述べることができず舌足らずのところがありましたので、今回から、そのことについてもう少し掘り下げて述べさせていただきたいと思います。

 先回も述べましたように、日本は、先の世界大戦によって苦い経験を致しました。そして、そこから多くのことを学び、荒廃した国土から奇跡的に復興を果たしました。当初は焼け野原だった都会も、やがてビルが建ち、路面電車も走るようになって、だんだんと戦後の荒廃から抜け出して行きました。

 企業も頑張りました。焼け出された中から、企業の建て直しが始まった訳です。もちろん、自由社会となって、新しい形態での企業が発生したということも、復興に大きな力となりました。

 そこで、戦後の企業をとりまく環境の変化を時代を追って見ると、次のようになるのではないかと思います。

 第一段階 物不足の中で、作れば売れるという時代

 第二段階 物が溢れて、差別化しなければ売れない時代

 第三段階 環境や地球資源などに配慮しないと売れない時代

 第四段階 そして、精神的価値がなければ売れない時代

 第一段階については、すぐにお分かりになることと思います。戦後の焼け野原の中で、なべの一つも無かった時代ですから、何しろ物を作ればすぐ売れるという時代でした。従って、企業は販売の努力をしなくても良かったという時代です。

 例えば、テレビや洗濯機、そして冷蔵庫は、家電三種の神器とも言われ、作れば飛ぶように売れました。人々は、まず精神よりも物を求めたのです。

 戦前では、「欲しがりません勝つまでは」という標語があったほどで、皆、欲しいものがあってもがまんをしました。ところが、日本の敗戦が決まってその縛りが解けると、人々は、どっと色々なものの買出しに走りました。そして、企業のほうでもこれに応えるべく、段々と量産体制を整え、製品をどんどんと市場の供給しました。その後のマイカーブームを見てもしかりです。

 しかしながら、このような状態がずっと続くという訳にはいきませんでした。それは、当然のこととして量産の結果、物が巷に溢れてきたのです。もうすでに、作れば売れると言う時代は終わったのでした。

 そこで、次に、第二段階である差別化しなければ売れない時代がやってきたのです。その時代では物が溢れていた訳ですから、今度は消費者が強くなります。自分で選んで、気に入ったものを買うという時代でした。

 ですから、消費者は必ず同種の製品の比較をするようになりました。機能、デザイン、性能、さらに価格というように、少しでも自分が気に入る商品を買うようになったのです。

 このことは、他社製品よりも少しでも有利となるような「差別化」を行うことを企業に促しました。ですから、各企業ではそれまでの横並び的な状況から、一つでもいいから他社より優れているところを作り出していきました。

 その結果、今まで通り作れば売れると、あぐらをかいていた企業は、どんどん淘汰されていきました。その例外が、銀行業界だったと言えるでしょう。銀行は、つい最近まで差別化をあえて行わず、護送船団方式で、横並びの金利や横並びの商品を出してきたのでした。

 この時代錯誤が、昨今の銀行の統廃合になったことは言うまでもありません。

 そして、その時代の次に、環境や地球資源に配慮しなければ売れないという第三段階の時代がやってきました。例えば、自動車は、それまででは性能やデザイイン、価格などの差別化をうまく駆使した自動車が売れた訳ですが、排気ガスによる大気汚染が社会問題となってからは、むしろ環境への配慮の有無が販売の条件となりました。

 人々は、その企業の公害への取り組み姿勢や実績を問うようになってきたのです。ましてや公害を垂れ流すような企業に対しては、購買拒否で臨み、その結果、整理されていく企業も少なくありませんでした。

 つまり、この段階では環境や地球資源への配慮が、売れるための条件としてさらに加わったということなのです。

 そして、第四段階です。この時代を今私たちは迎えている訳ですが、今までの段階で要求されたことに加えて、精神的価値が要求されることになったのです。

 このことは先回にも述べましたが、企業による不祥事事件などに象徴される企業モラルの問題です。腐った牛乳を出荷したり、輸入牛を国産牛と偽って補助金を詐取したり、はたまた欠陥車であることを隠していたなどの不祥事が続発しました。

 人々は敏感です。このような不祥事に対して特に敏感に反応します。そして、一旦不祥事を起こしたならば、信用は失墜し、その回復のためには、今までの企業活動で費やしたエネルギー以上のエネルギーを必要とします。

 従って、わずかの利益を得るための不祥事が、全然、割の合わない重大な事態を引き起こすことになったのです。

 ですので、企業の中では、現在この不祥事に対する管理能力の向上が急務となっているわけです。

 学校では、なかなかこのような道徳的なことを教えてくれません。またやっかいなことに、知性とこの善悪の判断能力とは別であるが故に、最高学府を卒業したからと言って、善悪に明るいということではありません。

 むしろ、学校も出ずに、都会から離れて畑仕事をしている主婦のほうが善悪に明るいということもあり得るのです。人様の困るようなことはしてはいけない、ウソをついたり、ごまかしたりしてはいけないということをよく知っているのです。

 さて、私は今後、企業にはそのような道徳や心の問題を解くような人が重宝される時代がやってくるような気がします。あたかも企業が弁護士をかかえるように、心の問題を解く専門家を必要とする時代が間もなくやってくるように思います(*1)。

 現在、企業は、知性重視型で学生を採用していますが、これからの時代では、善悪が分かり精神的なるものに価値を感じるような学生が優先的に採用される時代がくると思います。

 事実、企業では、もうすでに社外から役員を招き、自社のモラルを診てもらうということが行われていますので、このような心の時代がやってくるのも、すでに間近になったと言えるのではないでしょうか。

 以上、今回は心の時代がやってくる(その1)を述べました。まだまだ言い足りませんので、その2で続きを述べたいと思います。(竹内) 

(*1)『新ビジネス革命』第3章P.100(土屋書店)

   ●平成16年10月17日 心の時代がやってくる(その2)

 先回のコラムでは、心の時代がやってくる(その1)と題して、特に企業を取り巻く環境面から、心の時代がやってくるという予感について述べました。考えて見れば、心の時代がやってくると言っても、それは大きくて広い意味を持っており、一回や二回で語り尽くせるものでは到底ありません。

 そのように、心の時代とは、そのような意味を持っているものですが、今回は環境面に絞って、それについて述べてみたいと思います。

 心の時代において必要とされることは何でしょうか。それは、精神的なるものの価値が認められる社会となることです。つまり、精神的なるものが大事であるという認識が、多くの人々の間で広がることが必要となります。

 今までの時代においては、具体的な「物」や「お金」が価値あるものとして、多くの人々から認識されてきました。また、土地もこの範疇に入ることでしょう。しかしながら、その一方で精神的なるものは、それが見えない、触れられないということで、その価値が軽んじられてきたところがあります。

 ここに笑い話があります。「悟り、それなんぼでっか?」という会話です。これは、関西の言葉での表現ですが、標準語で表現しますと、「悟りは、いくらですか?」となるでしょう。

 今までの時代では、価値というものは、すぐに具体的な金銭で表現できるものであるという思いが、このような笑い話となったのでしょう。

 しかしながら、むしろ価値というものは具体的なものに代えられないもののほうが多いのです。精神的なる価値も、これに当たるでしょう。

 では、精神的なるものの価値には、どのようなものがあるのでしょうか。その一部を、あげてみたいと思います。

 1.安らぎ

 2.くつろぎ

 3.癒し

 4.静かさ

 5.落ち着き感

 6.暖かさ

 7.思いやり

 8.

 9.情熱

10.信仰

 などなどがありますが、あげれば、きりがありません。

 そこで、これら見てみますと、環境面から得られるものも多いということが分かります。安らぎやくつろぎは、そういった空間でなければ、得られるものではありません。

 また、静かさや落ち着き感も、環境面から得られるところが大であると言えるでしょう。

 現代は、あのテレビのコマーシャルに見られるように、わずか15秒の中で、人々にインパクトを与えて訴えようとして、パラパラとコマが変わるようなせわしい時代です。

 このような中では、皆がイライラして落ち着きません。また、人々は限りなく反応的になっていきます。もちろん反射神経が強くなるということは、実務能力の向上をもたらすものですから、本人にとって喜ばしい面もあります。

 しかしながら、それによって失ったものも大きいと言わざるを得ません。例えてみるならば、道端に落ちている石を拾うために、ダイヤモンドを捨てるようなものだと言えるでしょう。

 そこで、私は、ますますパラパラとせわしく移り変わる世の中だからこそ、その中で、安らぎやくつろぎ、そして、癒しや落ち着きが得られる環境というものが、非常に重要になる時代がやってくるのではないかと思っています。

 なぜ、人々は京都に行くのでしょうか。

 なぜ、人々は、都会を離れて、田舎に住みたいと思うのでしょうか。

 これらは、近代的な文明の恩恵から見れば、逆行することになるにもかかわらず、人々は今、その行動をとっているのです。

 そして、さらに考えるならば、これからの時代は、ますますこの傾向が強くなっていくのではないかと思います。

 従って、やがて人々は、家庭や職場に、山奥にいかなくても静かな環境が得られる仕組みを望むようになっていくのではないかと思います。。

 田舎や山奥に行こうと思いますと、もちろん、お金もかかりますが、忙しい現代人にとっては時間がかかり過ぎます。従って、今後の傾向としては、お金も時間も節約して、心の価値を感じることのできる環境が現れるのではないかと思っています。

 いや、もうその出現が、間近にせまってきているのではないかという予感がしています。

 以上、今回は、心の価値を感じるためには、環境ということが非常に重要であるということを述べました。そして、この環境は近い将来、必ず提供されるだろうとも述べました。 

 それでは、次回も、この続きについて述べてみたいと思います。(竹内)

 

   ●平成16年10月27日 新潟中越地震の発生

 今回のコラムは、先回の続きを述べる予定でしたが、去る10月23日の午後5時56分ごろに、新潟県の中越地域に震度6強なる大型の地震が発生しましたので、今回は、予定を急遽変更し、被災されました方々にお見舞いを申し上げますとともに、地震の発生のメカニズムの不思議について述べてみたいと思います。

 これだけの大きな地震ですから、事前に予知されていたかと言えば、残念ながら、それは皆無であったのではないかと思います。もちろん、これが前兆であったのではないかという情報が、発生後に多く寄せられることをよく聞きますが、それが、事前に警鐘となったことはあまりありません。それほど地震予知は難しいものだと思います。

 これほどの大地震ですから、連日テレビには、地震の専門家の方々が今回の地震についての解説をして下さっています。それも、素人に分かるように、なるほどなと思えるような分かりやすい説明もして下さっています。

 しかしながら、素人ながら素朴な疑問も湧いて参りました。そこまで明快に地震のメカニズムを解説できるならば、なぜ、地震発生の予知ができないのかと・・・。

 これは、私だけの疑問ではないのではないかと思います。なぜなら、自然界であろうが、工業やハイテクの世界であろうが、もし、その中のメカニズムやアルゴリズムが解明されていれば、そこに起こる全ての現象を、解説したり予測することができるはずだ、と思われるからなのです。

 にもかかわらず、予知ができていないということは、実は、そのメカニズムをまだ解明できていないのではないか、という疑問も起ります。

 テレビの解説では、いつも、日本海プレートや太平洋プレートの沈み込みによるストレスが、ある限界点に達すると、その跳ね返りにより地震が起こるということを言っています。分かり易くて、なるほどなと思ったのですが、今回被災された方々の証言から、次の疑問も起きて参りました。

1.
プレートとプレートは線で接しているならば、なぜ、震源が点なのか。
なぜ、震源が線状にならないのか。
 
2.
被災者の方々の誰もが証言されているように、余震も含めてまずドーンと突き上げがあったことは、活断層のずれによる地震とどのように関係があるのか。  
3.
余震が、活断層の横すべりで起こるとするならば、なぜ、本震と同じくらいの規模の余震が起きているのに、その後の地面のずれが広がらないのか。  
4.
被災地の道路の上に突き出たマンホールは、活断層の横すべりによってどのように起こるのか。  

 このような素朴な疑問に、どうも現在の説明では、答えきれていないのではないかと思えるのです。

 もし、地震発生のメカニズムが解明できていないとするならば、本震の予知はもちろんとして、余震の可能性についても説明しきれないことは当然だと思います。

 私は、どうも今までの地震発生の理論に、まだまだ不備があるのではないかと思えるようになってきました。これだけ単純な疑問に答えられないならば、その理論自体に無理なところがあるのではないかと思わざるを得ません。

 もちろん、断層が動いて地震が起こることもあるでしょう。また、プレートにストレスがかかってひずみもあるでしょう。でも、それだけではないようにも思います。

 議論をあえて飛躍させて言うならば、その論争は、天動説と地動説との論争や、人が、猿から進化したか否かを問う進化論の論争のような形に発展するかも知れません。

 自然というものは、人間にわざと錯覚を起こさせるように出来ているのかも知れません。洞窟の中に何千年も住み続けたコオロギは、目が退化してなくなったそうです。つまり、環境に適応するように、生物は進化するのだということも事実だと思います。

 しかしながら、それを一般論化して、全てに適応するとなると、無理があるのではないかと思います。理論としては、単純で分かりやすいのですが、分かり易いので、それだと断定してしまっては、そこにある種の危険性があるようにも思います。

 頭を白紙にし、先入観なしに事実を解明する態度が望まれるところです。

 何はともあれ、被災者の方々が、早期に元の生活に戻れるようにすることが、まず先決です。

 そして、次の地震に対しては、今回の教訓を活かして、大きな災害とならないように対応することこそが、智慧と言われるものではないでしょうか。

 ここで、改めまして今回の地震で被災されました方々に、心からお見舞い申し上げます。