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    ●平成15年08月07日 考えることに価値ある時代がやってきた

 

 先回までのコラムシリーズでは、価値あるものとは何かを中心に述べて参りました。その中で、現代の常識から考えると意外な結論となりましたが、有形なるものよりもむしろ無形なるものに価値が見出される、ということを発見させて頂きました。

 そして、それらは知識であったり思想であったりする訳ですが、その中でも最も価値があるものは「真理の言葉」であるとも述べさせていただきました。

 そうしますと、次に大切になることは、その知識や思想、そして真理の言葉を有意義に使えることが大切になってきます。なぜなら、それらを有意義に使えなければ、それらが持つ本来の価値を享受することができないからなのです。お金や貴金属は、ただ、それをお店に持っていけば何でも買えますので、それを扱う上で何らの変換加工の努力を必要としません。

 しかしながら、知識や思想、そして真理の言葉は、そのままで大きな効果を期待することは難しくなります。実は、その時に必要となる力が、それを応用する力、つまり「考える力」であるのです。

 そこで、今回から数回に分けて、その「考えること」について述べてみたいと思います。

 よく色々な本や雑誌を読んでいますと、これからは情報の時代になるとか、知識の時代になると書かれています。しかしながら、単に知識や情報があればいいというものではありません。それらが、今までの貴金属などと同様に価値ある形で活用されるためには、それらが価値ある形に変換される必要があるのです。

 例えば、政府が出版している色々な統計データがあります。毎月の消費の動向や、種々の生産動態の統計データなどがありますが、それを見て判断する能力の無い人にとっては、それらのデータは単なる数字の羅列にしか過ぎません。

 しかしながら、分かる人にとってはそれは宝の山となります。つまり、これからの消費がどうなるのか、いわく、どういうものが売れて、どういうものが売れなくなっているのか、この変化を読み取れる人にとっては、それこそ宝の山である訳です。なぜなら、それらから得られた世の中の傾向に従って事業を展開すれば、失敗することはないし、またさらに、大きな利益をあげることが出来るからです。

 ですから、これからの時代は、確かに情報の時代、知識の時代となっていきますが、それらを判断することができる「考える力」があることが前提となっているとも思えます。

 従って、これからますます考える力をつけるということが重要視されるようになっていくと思いますが、実際、書店では、昨年あたりから「考える」ということをテーマにした本がよく売れているそうです。そのことは、人々がたとえ情報や知識があってもそれを料理する力がなかったならば、ただのゴミの山になるということを悟ってきた証ではないかと思います。

 では、ここで考えるために必要なものとは何なのかについて考えてみたいと思います。

 私は、考えるためには次の3つのものが必要ではないかと思います。

 (1)知識や情報

 (2)考える方法

 (3)考える力

 これらを、料理にたとえてみたらよく分かります。たとえば、カレーライスを作るためにはどうすればいいのかを考えてみればいいと思います。

 まず、最初に材料をマーケットに行って買って来なければなりません。カレー用の肉、にんじん、たまねぎ、ジャガイモ、カレーのルーなど、あとご飯用のお米も必要でしょう、これらを買い求めることがまず必要です。

 そして、次に必要なのは、カレーの作り方、つまりレシピが必要です。おのおのの野菜が生のままでもいけないし、こげてしまってもいけません。また、カレーはある程度の粘り気も必要ですので、どのように作るのか、その調理方法を知ることが必要です。

 さらに必要なものは技術です。材料と方法があっても、技術がなければ料理を作ることはできません。ガスに火を付けられなかったり、包丁で材料を切ることができなかったなら、いくらよい材料があり、いいレシピの本を何回読んだとしても、おいしい料理を作ることは出来ません。

 以上、カレーライスを作る手順を述べた訳ですが、これを「考えること」に当てはめるとどうなるでしょうか。

 まず、料理のための材料集めは、考えるための知識や情報集めということになるでしょう。いくらよい調理器具があっても、材料がなければどうしょうもありません。それと同じように、いい頭があっても、知識や情報がなかったならば、何も考えることはできないのです。

 次に、考えることでレシピに当たるものは、考える方法でしょう。考えるということは、誰でもある程度はできるものなので、あまり重要視されていないというのが現状ですが、いやいやどうして、この考える方法を知っているだけで、大きな差となってきます。それは例えば、大きな石を動かすために、素手で動かそうとするのと、テコを使って動かそうとする違いにも似ているでしょうか。

 そして、料理の技術とは、考える力に当たるのではないかと思います。料理は、訓練を重ねることによってその技術力が身についてきます。それと同様に、考える力も訓練によって鍛えられるものです。いい知識があり、いい考える方法があったとしても、一度も考えたことのない人にとっては、先ほどの料理の例では、包丁を使ってにんじんすら切ることができないということになるでしょう。

 このように、考えると言っても、すぐに考えられる訳ではなく、やはり料理と同じように必要な段階を経てやっと結果が出てくるということになります。

 何事もそれをマスターするために、自己流で失敗を重ねながら自分なりのやり方を身に付けていかれる方もおられますが、やはり同じことで苦労した人がおられ、すでにいい方法を発見したならば、謙虚にそれを学んだほうがいいと言えるのではないでしょうか。

 特に、考えるということでは、その結果が料理や工作と違って目に見えてこないので、教育の場ではあまり取り上げられることはないようです。なぜなら、先生が試験問題を出して、採点のしようがないからです。

 パソコンスクールなら、グラフが出ましたとか、年賀状がきれいに印刷されましたとか、結果を誰でもが普遍的に確認することができます。でも、考えることについては、何が正解であるのか、これが誰にでも分かる形で出てこないので、今まであまりトレーニングされてこなかったところがあったのではないかと思います。

 しかしながら、この考える力はこれからますます重要視されていくことになります。昨年、ある有名企業が色々な不祥事を起こし、それが社会問題となりましたが、もし、社員の皆が考える力を持っていて、「これをしたらどうなるのか」ということを確認しあったならば、防止できたのではないかとも思います。

 また、会社の中でも、現在自分が行っている仕事の内容がこのままでいいのか、仕事と情報の流れからもう一度考えてみると、大いに改善の余地があったということもあるのではないかと思います。

 受身から積極性へ、今まで言われてことだけをやっていた職場が、考える力を身に付けるだけで、見違えるほどに変わることも夢ではありません。職場に限らず人生もしかりです。人生の問題も考える力をつけることによって、快刀乱麻を断つがごとくバサバサと切っていくこともできるでしょう。

 そのように、考えることがますます重要になってきた昨今であるが故に、ここでこのテーマで考えることも、また「考える力をつける」よい機会となるのではないでしょうか。(竹内)

 

   ●平成15年08月17日 考える力は自分が思っているよりも大きい

 

 先回のコラムでは、考えることの大切さについて述べ、これから、ますます考える力が重要となる時代がやってくることを述べました。その中で、考えるためには、(1)知識や情報、(2)考える方法、(3)考える力の3つが必要であるとも述べました。

 そこで、今回はもう一度、なぜ考える力が、それほど大きな意味を持っているのかを、別の観点から考えてみたいと思います。

 昔から力といいますと、ほとんど例外なく「体力」のことを言いました。ですから、力があるかどうかは、どれだけその人に体力があるのかと言うことと同義でありました。たとえば、どれだけ重いものを持てるのか、どれだけ遠くまで早く走れるのか、どれだけ遠くまで物を投げられるにか、など、そのほとんどが体力についてのことでした。

 ですから、力と言えば体力であった訳ですから、体力のある人が、多くの人々から尊敬を集め、リーダとなってきました。例えば、古くから名前が残っている人たちは、腕力や武力があって、自分はもちろんのこと、自分がリーダとなった軍隊も強いものでした。その軍隊が、他国に攻め込んでは領土を拡張し、勢力を段々と伸ばしてきた訳です。

 でも、今ではもう戦争というものは、一部の地域を除いてよっぽどのことが無ければないという時代となりました。でも、まだ中東などで起きているということは、古い時代の名残りでしょうか・・・。従って、戦争で自分の強さを表すことができなくなったので、現代ではスポーツがそれに取って代わったとも言えるでしょう。

 しかしながら、その体力もスポーツの世界以外では、表すことが難しくなって参りました。重いものは、クレーンや大型の重機が運びますし、早く走ると言っても飛行機で1日あれば、地球の反対側まで行くことができますし、またロケットを使えば、宇宙空間まで人間が行ける時代となりました。

 人間の力で高く飛ぶのは、どう見ても2メートルが限界です。それなのに、空高く飛ぶことができ、さらに宇宙まで行ける時代となったのです。

 そうなると、今までの力持ちは機械に負けてしまう訳で、力持ちの存在意義がスポーツの世界以外では段々と薄れてしまいました。そして、今度はそれとは逆に、そういう機械を生み出せる人が、力持ちに代わって段々と多くの人々からの尊敬を受けるようになってきました。

 つまり価値観が大きく変わってきたということです。力という物理的なるものから、物を工夫して作り出す力、つまり創造する力が重視されてきたということです。

 では、その創造する力とはどこから出てくるのでしょうか。

 創造するためのは、知識が必要です。そして、それをもとにして考えることが必要です。つまり、考える力から創造する力は生まれてくるのです。ですから、考える力の大きい人ほど、創造する力が大きく、その力によって多くの人々が、その恩恵を受けられるようになるのです。

 ある経済評論家の話だと、一人の天才が出ると、それで5000人ぐらいの人が食べていけるという話しがあります(*1)。

 この話は非常に興味のある話しで、知恵の世界では5000人力ということもあることを物語っています。

 体力の世界では、5000人力ということはあり得ません。100m走で、10秒を切れば世界新記録です。普通の人なら、100mを20秒あれば走れるでしょう。また、走り高跳びでも、2m強が人間の限界です。その走り高跳びも普通の人なら1mぐらいは飛べるでしょう。

 そう考えますと、体力の世界では、普通の人の2倍か3倍、大きくても5倍ぐらいが限界で、とても5000人力ということはあり得ません。でも、知恵の世界では十分にあり得ることなのです。

 しかしながら、その5000人分の知恵の力を持っている人を見てみますと、普通の人より確かに5000倍の能力がありますが、5000個の頭を持っているのか、あるいは5000倍の知識を持っているかと言えばそうではないと思います。もし、その人が、その年齢までに読んだ本の数が3000冊だとしますと、普通の人の読む本の数を50〜60冊ぐらいであるとするならば、50〜60倍ぐらいだと言えるでしょうか。

 つまり、知恵の力は単純に知識の数に正比例する訳ではなくて、相乗効果で乗算されるのではないかとも思えるのです。体力の世界では、筋力が倍強ければ、倍の力が出ます。筋力が倍のとき4倍の力になることはまずありません。

 しかしながら、知恵の世界は単純な正比例ではないようです。

 今、仮に知恵の世界では、その知恵の大きさの二乗に比例するとしたならば、どうでしょうか。

 たとえば、Aさんは、50冊の本を読み、それを自分のもととしてそれだけの知恵を持っているとします。一方、Bさんは100冊の本を読み、それを自分のものとしているとしますと、読書の量で単純に比較しますと、BさんはAさんの2倍ですが、その知恵の力は4倍ぐらいかも知れません。もちろん、読書数と知恵とがイコールになる訳ではありませんが・・・。

 この考え方で見てみますと、先ほどでの5000人を食べさせる知恵を持っている人は、普通の人よりも約70倍の知恵があることになるでしょう。(5000=(約)70×70)

 つまり、この考え方は、知恵に対する考え方に大きな変化をもたらすものと思われます。すなわち、自分が得た知恵は、その乗数で効果を表すとするならば、知恵に対する考え方は変わって来ざるを得ません。

 たとえば、ここに1万円あって、2万円になれば4万円の買い物ができるとなれば、誰でもがそれを増やすことに励むでしょう。なぜなら、こんなに大きな利率の貯金は、どこの銀行に行ってもないからです。

 なので、人々は、もっと知恵を得ることに励んでもいいのではないかと思います。しかしながら、残念なことに現在あまりそのようになっていないということは、知恵に対して過小評価しているのではないかとも思われます。

 仏教の世界では、1億人に一人、如来が出るとよく言われています(*2)。そうしますと、如来という方は、普通の人よりも1万倍の知恵があるとなるのでしょうか。そして、この知恵は智慧という悟りになりますと、その相乗効果は、さらに大きなものとなってくるかも知れません。

  フランシス・ベーコンは、「知は力なり」と言いました。まさしく、知は力です。いや、力以上に大きな力を持っているというのが私の実感です。たとえ腕力がなくても、大きな仕事ができる時代がきたということは、人類にとって、とりわけ女性にとっても大きな福音であると言えるのではないでしょうか。では、がんばって勉強に励みましょう。(竹内)。

(*1)『繁栄の法』P.58〜(幸福の科学出版);(*2)『釈迦の本心』P.253〜(同)

 

   ●平成15年08月27日 まず考えるための材料を集める(1)

 

 先回のコラムでは、考える力は、自分が思っている以上に大きいということを述べました。そして、その力は、単純比例するのではなく、乗数的に比例するのではないかとも述べました。

 しかしながら、考えるためには、(1)知識や情報、(2)考える方法、(3)考える力の3つが必要とも述べましたように、まず考えるための材料である知識や情報を集めることが必須となってきます。

 そこで、今回と次回の二回に分けて「考えるための材料を集める」と題して、材料の集め方について考えてみたいと思います。

 では、考えるための材料である知識や情報を得る方法には、どういうものがあるでしょうか。それを少し考えてみたいと思います。

 (1)学校などで得る

 (2)書籍などから得る

 (3)ラジオやテレビから得る

 (4)インターネットから得る

 (5)人と会って得る

 などが考えられますが、ではそれぞれについて、もう少しその内容について分析してみたいと思います。

1.学校などで得る

 まず、知識を得るという手段では、学校での教育が欠かせません。人間は、オギャーと赤ちゃんで生まれてきますと、全てが白紙でゼロからの出発となります。たとえ過去世で多くを学んでいたとしても、全てを忘れて何もない状態からの出発となります。

 過去世で、あれほど話していたその国の言葉も忘れてしまいます。例えば、過去世でイギリスに生まれていたとしても、今回、日本に生まれたならば、学校で英語を学ばないとまったく話せないのです。

 これは、万人について言えることで、例外がありません。ですから、子供が大人になり社会に出られるようになるために、すべてのことを学ばないといけないのです。そのために、どこの国でも学校が用意されているのです。

 では、学校というものは、大人になったらもう必要がないのかということですが、これから「考える」ということに対して、益々価値が見出されていくことが予想される社会においては、生涯学習、あるいは生涯通学ということが、一般的に定着していくのではないかと思われます。

 時々テレビなどで、大学の講義の教室に白髪のお年寄りが混じって、熱心に聴講している風景が紹介されたりしていますが、このシーンが当たり前となる時代がやってくることでしょう。

 また、放送大学もかなりの生徒を擁するようになることと思います。

 ですから、これからの学校の概念を、変えていく必要があるのではないかと思います。つまり、学校というところは、学歴を得るところだけでなく、常に有用な知識を得る場でもあると言う認識に変わっていくと思います。また、年齢に関係なく、好きなときに好きな時間講義を受けて、単位を取っていくような形態になっていくのではないかとも思います。

 そうなりますと、学校で教える内容も幅広くなっていくことが予想されます。現在では、理工系や文系に大きく分類されているだけですが、生涯において必要とされる知識、すなわち、全ての思想の基となる宗教知識や真理をも教える場が出てくるものと思います。

 特に、仏教では60歳はハナったれ小僧と言われるぐらいに、真理は生涯をかけて学んでいくものであるのです。

 従って、これからますます全国各地に真理を学ぶ研修場なども作られてきますし、また、年の何回かは、その研修場で学ぶことが必要になる時代がやって来るのではないかと思います。

2.書籍などから得る

 次に、知識を得る手段として、本や雑誌などを読む方法があげられます。

 学校においても、ある程度基本的な知識は教えてもらえますが、何しろ大勢の学生を対象としていますので、各学生に合った内容できめ細かく教えてもらうことは望めません。従って、それ以上については、自分で必要な知識を得なければなりません。その方法の一つとして、一番ポピュラーですが本や雑誌を読む方法があります。

 たとえば、火星が6万年ぶりに地球に大接近するということを、学校で学んだとします。しかし、その火星がどのようなものであるのかをさらに知りたい場合には、図書館に行って火星に関する本を借りたり、あるいは書店に行って関連図書を買って読むことによって、さらに詳しい知識を手に入れることができます。

 そのように、人類が今までに築いてきた知識が書物となって著わされていますので、ありがたいことに、それらを読むことによって知識を得ることができるようになっています。

 これは本当に古典的で伝統的な方法ですが、実は教養人の中に入るためには必要なことでもあります。つまり、教養人となるためには、ある程度の量の本を読むことが必要で、その量は最低千冊は読むことが必要(*1)とも言われています。

 しかも、書籍の読書量というものは、その人の知性と比例しているところがあり、知性にも発展段階(*2)があるようです。つまり、知の第一段階の発展段階では、ある一定量の読書と孤独な時間というものが必要とされます。

 つまり、静かな空間で読書を続けるということが必要となるのです。そして、その第一段階の読書量は約1000冊〜1500冊ぐらいが必要と言われています(*2)。

 でも、家族を持っている人が静かな空間で読書をするということは、現在の日本においてはかなり難しいことだと思います。またこれができる人は、かなり贅沢な人だとも言われることでしょう。

 大きな家で、部屋数がいくつもあって、家族やテレビの声が聞こえてこない環境を持っている人は少ないのではないでしょうか。従って、早くにそのような空間が安価に開発されることが必要とされるところです。

 もし、そのような空間が開発されたならば、それは人類に対する大きな貢献ともなるでしょう。かつて、便利な機械が発明されて生活が楽になって人類に貢献したように、今度は、また違った面からではありますが、人類の知性を高めることに対して貢献するものと思われます

 次に、知の第二の発展段階ですが、この段階では、約3000冊の読書が必要となります。この段階になりますと、他の知性の高い人に対する嫉妬心が薄れていく段階となります。嫉妬心は、自尊心と劣等感のベクトルの和ということを、過去のコラムでご紹介させていただきましたが、まさにそのことが、この知性の発展段階にて起こることなのです。

 そして、これを克服するためには、さらなる研鑚が必要で、うまずたゆまず実績を積み上げ、自信をつけていくことが大切となります。そして、もう一つの方法が、他者への祝福の心です。この祝福の心がなかなか難しいところですが、はじめはぎこちなくても、祝福を続けていくことによって出来るものでもあります。

 そして、さらに進んで、次の知の第三の発展段階となりますが、この段階では約4000冊の読書量が必要となります。この段階になりますと、いくらでも思想が湧き出してくる段階だと言われています(*2)。すなわち、知のプロの領域にまで踏み込んだ段階となるのです。

 さらに、5000冊を読破した段階に、知の第四の発展段階がありますが、これについては、その存在だけをご紹介させていただき、詳しくは参考文献(*2)を読んでいただきたいと思います。

 このように、読書の量によって知性が発展するという関係が明らかになった以上、やはり読書に対して、もっともっと関心があってもいいのではないかと思います。

 しかしながら、その真実とは逆に、近年、書籍の販売量が段々と減ってきているということは残念なことです。

 私は、書籍というものは身銭を切って買うべきであると思っています。もちろん図書館から本を借りてきて読むのは便利なことですが、自分の身銭を切った本は、真剣に端から端まで読むという自分を発見したからです。

 最近、電子書籍と言って本棚のスペースも取らないし、重量もないということで、ICチップの書籍が出回っていますが、コンピュータの世界にいる自分でも、それを本の代わりに読めと言われても少し抵抗があります。

 やはり、書籍というものは、それ自体波動を持っているもので、もちろん悪書は論外として、思想的にすぐれた書籍を部屋の中に置くだけで、部屋全体、ひいては家全体の波動をよくする効果があります。

 つまり、幸福を呼ぶ効果があるのです。ですから、良書は、本棚に並べるだけで、結界の役目を果たしてくれるという効果まであります。

 以上、書籍によって知識や情報を得ることについて述べさせていただきました。

 続いて、(3)〜(5)の方法については、紙面(画面)の都合で、今回のコラムに入りきらなくなりましたので、次回で述べたいと思います。今回は、学校で学ぶ方法や、書籍を読む方法について述べさせていただきましたが、これからの本格的な情報化時代を迎えるに当たって、これらの形態もかなり変わってくるのではないかと、感じさせていただいた次第です。(竹内)

(*1)『人生の王道を語る』P.245〜(幸福の科学出版);(*2)『新・幸福の科学入門』第11章(同)

 

 

   ●平成15年09月07日 まず考えるための材料を集める(2)

 

 お陰さまで、この七の日コラムを書き始めてから、今回で、まる一年が経ちました。

 毎回、お読みいただいております皆様に、改めまして、この場をお借りし御礼申し上げます。本当にありがとうございます。

 この一年を振り返ってみますと、竹で言うところの節のような一年であったような気がします。この節が終わって、すくすくと青い部分が伸びるのか、あるいは、まだ節が続くのかは分りませんが、ここのところの経済的な苦境を通して、私たちの考え方、ひいては日本全体の考え方が変わってきたように思います。

 それは、物質的なるものの考え方や、数字的なるものの考え方だけの性質から、その奥にある心の念いにこそ、その価値を見出すという姿勢に変わってきたように思えるのです。

 大企業であっても、売上のためには、うそをついてでも品物を売ったり補助金を騙し取るというような事件が発覚し、人々は、自分たちが今までよしとしていたことを、もう一度考える機会を持ったのではないでしょうか。

 そして、癒しであるとか、燃料電池車のように、環境にやさしいということに対して、関心がとみに高まってきたのも、ここ一年の特徴でもありました。

 まさに、時代は心の時代へと向かっているのです。この価値観の大転換についていける人が、未来型の人間となっていくものと思われます。

 さて、先回のコラムでは、考えるための第一ステップとして、「まず、考えるための材料を集める」ということについて述べましたが、今回は、その続きについて述べてみたいと思います。

  ここでもう一度、考えるための材料である知識や情報を得る方法には、どういうものがあるかを振り返ってみたいと思います。

 (1)学校などで得る

 (2)書籍などから得る

 (3)ラジオやテレビから得る

 (4)インターネットから得る

 (5)人と会って得る

 (1)(2)につては、先回お話しいたしましたので、今回は、(3)からです。

3.ラジオやテレビから得る

 昔の時代では、知識というものは、学校や書籍からでしか得ることはできませんでした。しかしながら、科学技術がどんどんと進み、色々な手段によってそれらを得ることが出来るようになりました。

 特にニュース関係については、これが顕著になっています。今、起きた出来事は、ラジオやテレビで放送され、人々は、すぐさまそれを知ることが出来るようになりました。

 一番早いと言われる新聞でも、記事を書いて印刷し、それを配達するまで人々に知らせることはできません。書籍なら、なおさら時間が遅れてしまいます。

 しかしながら、ラジオやテレビでは、例えば、現在取引されている為替の情報や、株価の情報をすぐさま得ることができます。もちろん、自分が持っている銘柄が放送されるまでの時間は待つ必要がありますが、新聞の比ではありません。

 ラジオのよいところは、活字を目で追う必要はありませんので、聞いているだけで情報を得るところにあります。さらに、テレビのいいところは、「百聞は一見にしかず」のたとえの如く、言葉で説明を何度聞いても分らなくても、見たらすぐに分るというところにあります。

 例えば、プロ野球の放送を、ラジオで聞いてその状況を知るのと、テレビで見てその状況を知るのでは、かなりの開きがあるでしょう。断然にテレビのほうが、状況を知るという意味では強いところがあります。

 しかしながら、ここで注意しないといけないことは、テレビ番組によっては景色や雰囲気だけを流すので、逆に情報不足になることもあるということです。例えば、テレビのほうが書籍よりも情報量が多いかといえば、そうではないところがあります。

 もちろん、映像情報と文字情報をデータ量だけで比較しますと、2桁〜3桁映像情報のほうが多いのですが、映像に頼りすぎ、雰囲気だけで終わる危険性があります。

 例えば、テレビの番組を1時間見て自分が知識として蓄える量は、読書の10分程度しかないと言われています。それは、テレビ局の番組の作り方が映像だけで勝負する傾向にあるので、書籍のように、背景に多くの情報を擁して、かつ、最終的にそれらを圧縮した形になっていないからではないかと思います。

 でも、そうとは言え、見ればすぐに分る便利さは他の情報手段よりも抜群の効果があり、これからも、あり続けていくことと思われます。

 特に、講演会の中継やビデオなどは、講演者の表情や、言葉の強弱までが分るため、書籍で読むよりも理解が進むという効果があると言えます。

4.インターネットから得る

 次に、インターネットから情報を得る手段について考えてみたいと思います。パソコンが、爆発的に普及した理由の一つに、インターネットによるところが大であると言わざるを得ません。

 インターネットが無ければ、パソコンは、ただの箱と言う人がいるくらいで、インターネットを利用するために、パソコンがあると言ってもいいぐらいです。

 では、その効果はどこにあるのかと言うことですが、もちろんオンラインの形態で、色々な事務処理ができるということもありますが、実は、その情報収集能力にあると言って過言ではありません。

 ある言葉をキーにして、インターネットで検索をすれば、世界中の情報の中からその言葉が記述されているサイトが見つけ出されるのです。ですから、インターネットでの検索は、超々巨大な百科事典の中から見たい情報を見つけるところに似ています。それも瞬時にです。

 例えば、ここで実験を行ってみます。「データベース中心主義」という言葉について、記述しているサイトを、世界中のサイトの中から探してみます。「google」という検索機能(エンジンとも言う)を使って検索(ここをクリックして下さい)してみましょう。 

 いかがですか。見つかりましたか。

 世界中の何億というサイトの中から見つかったのです。手前味噌で申し訳ありませんが、「アールサン」のホームページが見つかったのです。そして、そのホームページをクリックして見ていけば、それについての情報をさらに詳しく得ることができます。

 通常、一つの言葉で1件だけ見つかるということはまれであるため、できるだけ多くの言葉を複数個指定して、絞った形で結果が出るように検索がなされます。

 ただ、ここで問題があります。それは、情報のリストラ(*1)ということが必要になると言うことです。それは、インターネットにはあまりにも多くの不要な、あるいは有害な情報が多いため、それらの不要な情報を取り除く技術が必要になると言うことなのです。

 この理由によって、インターネット有害説を唱える方もおられるので、利用する側にとっては、どうしてよいのか迷っておられる方もいるかと思います。

 これは、文明が便利な道具を生み出したときに、必ず問題になることなのです。例えば、自動車が発明された時もそうでした。自動車は、汽車と違って線路がないので、自分の好きな所に行くことができます。その結果、事故が発生し、人が死ぬことがあります。そこで、自動車を全て禁止したらどうか、という議論に似ているように思います。

 要は、便利なものはその反面、同時に効果的な凶器にもなる訳で、そうならないための教育やルール、ならびに社会システムの整備が必要になるということなのです。

 最近、コンピュータウィルスが社会問題となっていますが、ウィルスを作って人に迷惑をかけないという心の教育こそが必要で、インターネットを廃止し、古代に戻ろうという考え方は、問題の解決にはならないのではないかと思います。

5.人と会って得る

 最後になりましたが、むしろこれが最初かも知れません。人間は、まず、両親から色々なことを学ぶからです。言葉や、ご飯の食べ方、服の着方、そして、文字の書き方などです。

 ですから、まず人から情報を得るということが基本にあると考えていいと思います。

 そこで、今、人から学ぶということが最初に来ると述べた訳ですが、これを最後に持ってきた理由は、これが最も大切で難しいことだからです。つまり、人から学ぶと言うことの本当の意味は、人生の師を持つことだと言いたいのです。

 この方が私の人生の師である、ということを言える人はどれくらいおられるでしょうか。

 もちろん親が居ますし、会社の上司も居ます。また、かつての学校の恩師もおられるとは思いますが、この方が、我が人生の師ですよ、ということを言える方がどれほどおられるでしょうか。

 もちろん、その師が生きておられれば一番いいことですが、すでに亡くなっておられたとしても、こういうことを言えるかです。

  人間というものは、その人が謙虚な人であるならば、必ず尊敬する人を一人や二人は持っているはずです。その自分が尊敬する人から学ぶということが、これから、さらに大切になる時代がやってくると思います。

 これは、ある意味で「信仰」という形態かも知れません。

 なぜなら、あれもいい、これもいいという形で思想や知識を、百貨店から買うように、無秩序に学ぶことは、もうこれからはできなくなるからなのです。あえて、そのように学ぶこともできますが、それでは、自分の中でそれらを立体的に体系化することは難しいからです。

 それらをばらばらに、単なる情報として丸暗記することだけが目的ならば、それでいいのですが、学んだ知識を自分で応用して使える段階にまで持っていくためには、この知識の体系化が必須の事項となるからです。

 もう単なる暗記が重要視された時代は終りました。入試の問題が、受験生の暗記能力をテストする時代は、もう終りを迎えるでしょう。

 この段階になってきますと、おそらく知識の段階を超えて、智慧の段階にまで入っていくのではないかとも思っています。そのための大きなイノベーションが、もうすでに始まっていると私には思えます。

 以上、今回は前回に引き続き、考えるための材料を集める方法について述べさせていただきました。何か皆様のヒントになれば幸いです。では次回は、考える方法について述べてみたいと思います。(竹内) 

(*1)『青春に贈る』P.61〜(幸福の科学出版)

 

   ●平成15年09月17日 考えるための方法(1)

 先回と、先々回のコラムの二回の分けて、考えるための材料の集めについて述べさせていただきましたが、やはり、いくら頭が良くても、考えるための材料がなくてはどうしょうもありません。もし、この場にフランスでNo.1のシェフがいたとしても、料理するための材料がなければ、どのような料理も作ることはできません。それと同じように、考える場合も同じだということです。

 でも逆に、色々な材料が多くあれば、料理の腕が悪くても何がしかの料理は作れるものでもあります。ですから、多くの情報を知っていますと、それだけで問題が解決できることもあり、材料集めがいかに重要であるかが、お分かりいただけたのではないかと思います。

 さて、そこで今回から数回に分けて、考えるための方法について述べてみたいと思います。

 その前に、考えるという行為は、一体、どういうことを意味するのか、ということを確認したいと思います。

(1)「考える」と「反応する」とは違う

  そもそも、考えるという行為は、本来、外からの刺激によってなされるものではありません。それは、内から自発的になされるべきものなのです。現在では、これらは同様に扱われていますが、本来的には異なるものなのです。

 「あなたは常に考えていますか」、と問われれば、誰でもが考えていますと答えるでしょう。例えば、私は、お腹が減ったら何を食べようかと考えていますし、寒い日などは、外に出るために何を着ていこうかなどと、いつも考えています、と言われる方も多いと思います。

 しかしながら、この意味での「考える」とは、外的なきっかけによって考えさせられているのであって、ただそのきっかけに対して「反応している」だけに過ぎないのではないかと思います。

 つまり、それは、自分の内的な問題意識によって自主的に考えているのではなく、ただただ、そのきかっけに対して反応しているだけなのです。

 本当の意味での考えるということは、外からの要因によるものでないために、常に内なる問題意識がなければ考えることができないものでもあります。ですから、そこのところが、「人間は考えられるだけでも大したものだ」と、言われるゆえん(*1)なのです。

 だからこそ、まず、「考える」ということと、「反応している」ということとは別のものであるという認識が必要です。自分は、今考えているのだろうか、それとも、刺激に対して反応しているだけなのだろうかと、常に自問自答することが必要だということなのです。

(2)考えるための環境

 そこで、反応型になってしまわず、考えることが出来るようになるための工夫が必要となります。よく言われることは、人間の感覚器官に刺激が加えられると、人間はそれに反応してしまう傾向にありますので、そうならないための工夫が必要だと言うことなのです。

 昔の高僧のように、瞑想中に近くに雷が落ちても、動ぜずというという人ならいざ知らず、通常の人ならば、雷に無関心でいられるはずはありません。必ず、そちらに気が取られるものです。

 従って、感覚器官を過度に刺激しない環境を用意して、考えることができるようにすることが必要となります。そこで、五官のそれぞれについて考えてみましょう。

 まず眼です。アクション映画を見ながら考え事をするのは難しいでしょう。何か人工的で刺激の強い情報が眼に入りますと、人間は、それに頭が反応してしまいますので、情報をまず無くすことが大切です。新聞や雑誌、テレビなど、眼が反応してしまいそうな情報を遮断した環境が必要となります。

 次に、耳です。それは音を意味します。電話の呼び出し音、人の話し声、テレビの声などがこれに当たります。これらの音が耳に入ってきますと、自然に反応してしまうことになります。さらに、情報を含んでいなくても、自動車の騒音や、建設工事の騒音など耳に不快な音も、考えの妨げになります。

  そして、鼻です。つまりこれは、臭いです。お腹が減っているときに、カレーライスの臭いが強烈にするところで考えることはできないでしょう。また、腐敗臭など、人間が不快感を感じる臭いも考えの妨げになります。

 そして、さらに舌です。これは、文字通り、食べながら考えられるかということです。食べ物には、必ず味がありますので、色々な味によって刺激を受けながら考えることは難しいものです。しかしながら、逆に、考えに集中しているときには、何を食べても味を感じなくなるので、両者は、二者択一(どちらかしか取れない)で選択されるべきでしょう。

 最後に、体です。体に何かが触れながら、考え続けることも難しいものです。先日、新幹線に乗って出張に行きましたが、そのとき隣に座った人が、新聞を広げるたびに私にぶつかっていましたが、そのとき、やはり気になるものでした。

 電車の席の隣に座った人が居眠りをして、頭をこちらにぶつけられたという経験は誰にでもあると思いますが、そのようなときに、考え事をじっくりとできるでしょうか。やはり、そちらに気が行ってしまうものですね。

 以上、人間の感覚器官に刺激を受けながら、考え事をすることが難しいという話しを致しましたが、逆に、まったく刺激がない場合も考えることができなくなります。

 例えば、真っ暗闇で、何も音がしないところでは、逆に恐怖心や不安感が先に立って、考えるどころではなくなる、というのが通常の人間でしょう。

 ですから、強い刺激がなく、かつ、心が安らぐ環境を提供することが、考えるということに対して必要なことだと言えます。 

 水平線に沈み行く太陽が見えるところや、せせらぎのある小川の岸辺、また、お寺の庭などがそれらに適した環境であると言われています。

 つまり、心身ともに、リラックスできる環境というのが、結論ではないでしょうか。 

 実は先日、これから考えるというテーマでコラムを書くということなので、京都の哲学の道に行って、実際に環境を味わって参りました。(下の写真)

 やはり、環境が大切なのだということを痛感してきた訳ですが、でも、考えるたびに京都の哲学の道に行かなければならないとしたら、これはまた大変だなと思いました。

 お金も時間もかかることなので、このような環境で考えられる人は限られてくるだろうとも思いました。

 しかしながら、もし、このような環境を安価に、また手軽に、しかも自宅の中に持てるとするならば、効果も大きいのではないかと同時に感じました。つまり、考えるということには、大きな力がありますので、これが十分に引き出すことが出来たならば、人生の勝利者になれると思った次第です。

(3)考えるための注意点

 以上、考えるための環境について色々と述べた訳ですが、ここで注意すべき点があります。それは次のようなことです。

 

・あまりにも疲れているときは、考えるよりも、まず体を休めること。

・大きな悩みや常に気になることがあれば、まずそれらを先に解決すること。

・考えるということは、かなりのエネルギーを消費するので、甘いものなどで栄養補給をすること。

・どうも悲観的でマイナスの思いばかりが出てくるようだったら、人のためになることをしてから考えること。
 (思考には愛をともなうべきである)

 などがあります。考えるということは筋肉を使わないので、体力など要らないと思われがちですが、私の経験では、肉体労働以上に疲れるものです。

 かつて、受験勉強をしていたときに、むしょうにお腹が減るので、夜食をいつも食べていたことを思い出しました。やはり、頭を使うということは重労働だったのですね。

 以上、今回は、考えるための方法の(その1)として述べさせていただきました。まだまだ舌足らずと、紙面の制約で述べ切れていませんが、次回もこの続きを述べたいと思います。(竹内)

(*1)『仏陀の証明』P.30(幸福の科学出版) 

   ●平成15年09月27日 考えるための方法(2)「四考法」

 先回のコラムでは、考えるための方法(1)と題して、「考える」ということと「反応する」ということは違うことを述べました。また、考えるためには環境や、体と心のコンディションが重要であることも述べさせていただきました。

 そこで今回は、考えるための方法の続きを述べたいと思います。

 よく職場などで、上司が部下に向かってよく考えろ、と言っている姿を見かけます。上司のほうは、「こんなこと、ちょっと考えれば分るはずなのに」と思っており、部下は部下で、「私はよく考えている、何が悪いのか」と思っている場合がよくあります。

 つまり、この場合は、考えるということに対するお互いの認識が異なっているので、このようなことになるのではないかと思います。上司は、部下には、この側面からの見方がないではないか思っており、部下は、上司が望んでいる側面とは違う面から見て、自分ではよく見て考えていると思っているのです。

 例えば、コップを見るにしても、上から見ると円となりますが、横から見ると長方形になります。コップ自体は、底のある円筒形であるというのが答えなのですが、偏った側面からしか見ていないと、このような答えになってしまうのです。

 ですから、物事をどのような側面から見るのか、あるいはどのような側面から考えるのかということが大変重要になるのです。

 そこで、あることについて考えるときに、私は、次のような側面から考えることができるのではないかと思っています。これを考えるための4つの方法、題して「四考法」と名づけました。

 物(存在)に対して

(1) それは一体何なのか(本質)

(2) なぜそれがあるのか(理由)

(3) 何のためにそれがあるのか(目的)

(4) それはあとどうなっていくのか(縁起)

 行為に対して

(1) その行為は一体何なのか(本質)

(2) なぜそれをするのか(理由)

(3) 何のためにそれをするのか(目的)

(4) それをしたらあとどうなるのか(縁起)

 以上、物と行為の2種類の対象に対しての側面をあげましたが、もちろん、他の対象によっては、さらなる側面があることと思います。でも、最低限この4つの側面から考えれば、他の色々な対象についても、かなりのことをつかむことができるのではないかと思います。

1.本質をつかむ

 そこで、今回は、その第一の本質をつかむところについて述べてみたいと思います。

 本質をつかむとは、例えば「それは一体何なのか」「その行為は一体何なのか」という側面から考えることですが、まず、例によって考えてみたいと思います。

 例えば、「自動車」という設問が出されたとします。そうしますと、自動車は一体何なのかをつかむために、まず、情報集めに入ります。自動車に関するできるだけ多くの情報を集めます。それは、例えば、次のように集められるでしょう。

 「乗り物」「ガソリンで動く」「蒸気で動く自動車もかつてはあった」「ハンドル、ブレーキ、レバーで、運転をする」「乗用車、バン、トラック、装甲車、戦車、などの種類がある」「日本車、米国車、ヨーロッパ車などがある」「特殊なスポーツカーもある」「自動車レースでその性能を競う」「エコカーが最近話題になっている」「ガソリンだけでなく、水素を燃料にする自動車もある」「太陽電池によって走る自動車もある」・・・

 というように、物事の本質を知るためのには、まず情報集めから入ります。情報はできるだけ多いほうがいいのです。ですから、図書館に行ったり、インターネットの検索サイトで検索したり、あるいは、自動車に詳しい人に聞いたりして、情報を集めます。

 そして、情報が集まったならば、それらを全体的に統合して、自動車とは一体どういうものであるのかを、考え、考え、自分なりに答えを出していきます。

 実は、ここで「考える」という作業が発生するのです。自動車とは、単にガソリン車だけではありませんし、人を運ぶだけではなく、大きな荷物までも運べます。また、装甲車や戦車のように、戦いに使われることもあります。

 つまり、自動車は、それらであってそれらでない。一言で、言い表すことができないものである訳です。

 それらの集められた多くの情報を知って、全体的に自動車とはこういうものだということを捉えるのが、物事の本質を捉える作業となります。

 例えて言えば、夜空に多くの星が集まっているところを見ますと、星座になって見えてきます。それぞれの星自体は、光の点にしか過ぎません。でも、それらが多く集まり、想像豊かな人が見れば、星座となって見えて来るのです。

 その本質を知るということは、その星座を発見する作業に似ているかも知れません。

 次に、行為の例を考えてみたいと思います。例えば、「販売」と言う行為を考えてみたいと思います。

 「売ること」「物を売って代価をもらうこと」「仕入た商品を、付加価値をつけて顧客に仕入れ値より高い値段で売ること」「製品がなければ販売にならない」「顧客がいなければ販売にならない」「同業他社も同じものを販売している」「販売は競争である」「販売は景気に左右される」「でも景気に左右されない製品もある」「製品の魅力がなければ売れない」「マーケットの開拓が販売の前提になっている」「顧客の創造が販売の要だ」・・・

 というように、前の自動車の例と同様に、まず情報集めから始めます。

 できるだけ多くの情報を集めることが大切ですが、自動車の例と同じで、時代とともにその内容が変化してゆきますので、その本質を捉える際には、それぞれの情報にウエイト付けをすることが必要になってくるでしょう。

 そして、情報を集め終わったならば、販売とは一体何なのかということを、考えに考えます。

 実は、ここが自動車の例と同じく重要なのですが、物でない分、抽象的であるが故に難しい作業ともなります。従って、工夫が必要となります。

 この作業はある意味で、連想ゲームのように色々な意味を組み合わせながら、かつ、立体的になるように組み立てていくような作業になるでしょう。従って、それを具体化するために図に書いて考えるのもいいかと思います。

 最近、図を使った思考の重要性を解説した本などが出版されていますが、これなども、抽象的なテーマで考える人たち増え、わらをもつかむ気持ちで、考える方法を捜しておられる証拠ではないかと思います。

 以上、考える方法の切り口の1つについて述べさせていただきました。世の中が、段々と高度化するにつれて、どう考えていけばよいかが分らないと困っておられる方も多いのではないかと思います。そういう方々にも参考になれば幸いです。

 次回は、さらに、考える方法の続きについて述べさせていただきます。(竹内)