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Rsun,株式会社アールサン,データベース中心主義,七の日コラム,データ駆動型データベース,R3D(京都東山;自然の涼しさと癒し)
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過去のコラム 平成16年7月〜平成16年8月まで
過去のコラムのページ |
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●平成16年07月07日 学ぶことの大切さ |
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お陰様で、この七の日コラムを書き始めてから、まる1年と10ヶ月が経ちました。時の経つのは早いもので、あっと言う間の月日でもありました。 そこで、今回は7月7日という七の月の七の日でもありますので、少し違った観点から述べてみたいと思います。 もう随分と昔のことになるのですが、インドで狼に育てられた少女が発見されたことがありました。それを、例によってインターネットで検索しますと、発見者であるシング牧師が、その様子を本に書いて出版しておられました。日本でも、その訳本が出版されています。(購入も可) その内容は、おおよそ次のとおりです。1920年のこと、インドのカルカッタ村付近で、夕方になると怪しげな人影が出るというので、シング牧師夫妻がそれを確かめに行きました。そうしますと、狼の穴の中に2人の少女を発見したのです。 シング牧師たちは、穴の中に居た推定1歳半と8歳のこの2人の少女たちを引き取り、アマラとカマラと名付けました。彼らは、四つんばいで歩き、手を使わずに生肉を食べ、夜中になると、まったく狼のように遠吠えをしたということです。それでもシング牧師夫妻は、人間に戻れるようにと懸命に育てられました。 しかしながら、アマラは、不幸にも1年足らずで亡くなり、一方、カマラのほうも、養育は続けられましたが人間への復帰は困難を極めたということです。例えば、彼女は1年半でやっと直立歩行ができるようになりましたが、走る時には4本足に戻るなど、言葉についても、9年でやっと30語程度の言葉しか話せなかったそうです。その9年間の献身にもかかわらず、カマラは9年で尿毒症により世を去りました。 この本が出されてから、色々と反響がありました。不思議なことに、この話しについては、真っ二つに評価が分かれたのです。 つまり、これはウソだという人。狼が人間を育てられる訳がないという人。彼女たちを撮った百数十枚の写真もウソだという人も居ました。 一方、この出来事を受け止めて、環境や教育の大切さを強調する人も多く出ました。 私の感想は、この話しがウソか本当かということよりも、人類の歴史に原始時代の生活があったということ自体が、もうすでに答えが出ているのではないかと思いました。 つまり、現代の文明文化がこれだけ発達したということは、過去の知識や経験が土台になっているからこそということができまます。 もし、一人ひとりの人間が自分の寿命の中で、全てを自分自身で作り出していかなければならないならば、文明文化は、一歩も進まなかったのではないかと思います。 エジソンが電球を発明したからこそ、今、夜でも明るく過ごすことができます。また、グラハム・ベルがいたからこそ、電話を使うことができます。マルコーニがいたからこそ、ラジオを聴くことができます。 もし、それらの道具を、自分の生涯の中で全て発明して生み出していきなさいと言われれば、いつまでも原始時代が続いていたはずです。いや、動物のように何万年も前と同じ生活をしていたはずです。動物と人間との違いはここにあるのではないかと思います。 人間は、赤ちゃんで生まれてきたならば、ゼロからの出発となります。全てが白紙から始まるのです。言葉も、おはしの持ち方も、トイレでの用足しまで学ばなければなりません。 さらに、学校で読み・書き・そろばん(計算)を学ばなければ、字も書けません。私たち日本人は、字を書くことに対して、それほど大きな困難を感じてはいませんが、世界には読み書きができない人たちが、まだまだ多くおられます。 ましてや、計算をするということについては、学校などで学ばなければ、とてもできるものではないのです。 読み・書き・そろばんですらそうですから、ましてや宇宙の真理や、この世界(あの世も含めた)のしくみ、人間の心の法則に至っては、一から学ばなければ、先ほどの狼に育てられた子と同じになってしまいます。 もし、このような真理に精通している人類(宇宙人でもいい)から、私たちを見れば狼に育てられた子に見えているかも知れません。 放っておいても学べるなら苦労はない訳ですが、これは、他と同じように学んでいくしかないところにつらいところがあります。 今、そういう意味では、人類は非常に恵まれた環境にあると言えます。アマラとカマラは、自分が勉強したくても狼が親ならば、それは出来なかったことでしょう。 あるいは、アマラとカマラまでないにしても、もし、そのような真理の知識のない時代に生まれていたならば、それらを学ぶことは非常に難しいことでしょう。たとえ、それらがあったとしても、何千年もの昔から伝わってきている内容では、すでに形だけになっていることでしょう。 しかしながら、今、人類がかつて知り得なかったところの真理を知るという時代にあります。この時代のことを「太陽の時代」(*1)(*2)と言って、さらに人類が進化をする奇跡の時代にあると言っていいでしょう。 そのような時代にあって、もし、自分が灯台下暗しならば、その人の人生は、狼のような人生になってしまいますと言えば言い過ぎになるのでしょうか? それでは、次回も引き続いて、この続きを述べたいと思います。(竹内) (*1)『太陽の法』(幸福の科学出版);(*2)『幸福の法』第5章(同) |
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●平成16年07月17日 考えることと仕事 |
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先回のコラムでは、知ることとの大切さについてお話しをしました。「知は力なり」とよく言われますが、どんなに困ったことがあったとしても、知ってしまったならば終わりということもよくあることです。 例えば、目の前にドアがあって、押しても押しても開かない時、他の人からそれは引くんですよと言われたらそれで終わりなのです。それを知らないで、いくら押し続けても、ドアは開きません。ですから、知れば意外と簡単なことが多いのです。 実のことを言いますと、それを経験したのは、この私なのです。このドアは、なかなか開かないと困っていたら、他の人から笑って教えていただいたのです。 さて、そこで今回は、今までこのこのコラムで述べて参りました考えることと仕事について、再度、その項目を眺めてみたいと思います。 ●考えることについてのシリーズ 1.考えることの大切さ 2.考えるために 3.考える方法
4.考える方法の実例
●仕事についてのシリーズ 1.仕事の種類について 2.創造型の仕事
3.管理型の仕事
4.仕事と作業 以上、過去約1年にわたり、考えることと仕事について述べて参りました。この、シリーズを振り返ってみますと、明らかに、人間の活動内容が変わってきていることに気がつきます。過去において、人間の仕事というものは、肉体生命を維持するところにウエイトがありました。 例えば、食物に関する仕事や、衣服や住居に関する仕事にウエイトがありました。しかし、現在では、人間のさらなる能力を引き出したり、富を増幅するようなところにウエイトが移ってきたと言えるでしょう。 従って、これからは、筋力に代わり知力や精神力、さらには、悟りの力が重視される社会になることは想像に難くないと思います。ですから、これから益々教育産業や、ハイテク産業、そして金融関係の仕事が重要視されることになるでしょう。 そのベースとなるものが考える力であり、考えること自体が仕事となる時代がもうすでにやって来たと言えるかと思います。 そこで、これからの七の日コラムでは、種々の仕事において、考えることと仕事とを、どのように融合させていくかということについて、述べていきたいと思います。 それでは、次回も引き続きお読みいただければと思います。(竹内) |
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●平成16年07月27日 猛暑お見舞い申し上げます |
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先回のコラムでは、考えることと仕事をテーマに、過去約1年間にわたって述べてきた項目を再度眺めてみました。今回は、その続きを述べようと準備していたのですが、先日、東京が観測史上最高の摂氏39.5度の気温を観測しましたので、それどころではなくなり、今回は趣を変えて少し涼しい画像でもご覧いただければと思います。 実は、先週、信州は白馬に暑さを逃れて行って参りました。その涼しさを少しでもお届けしたいと思いますので、下のイメージのところをクリックしてください。
それでは、次回も頑張っていい内容をお届けしたいと思います。(竹内) |
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●平成16年08月07日 自動車のコンセプトを考える |
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先回のコラムでは、あまり暑い日が続きますので、少しでも涼しくなるようにと、高原の写真を掲げてみました。ここのところニュースを見ていますと、多いのが豪雨のニュースと、痛ましい交通事故のニュースです。 豪雨のニュースでは、多くの方々がお亡くなったり、家が流されたりで暗い思いになりましたが、全国から支援が集まって、自分の当たった宝くじまで寄付される方も現れ、心温まる思いでした。また、何よりも、ボランティアの方々が全国から多く集まられたということは、やはり人間には、仏性(ぶっしょう:仏と同じ性質が宿っていること)がある証拠だと強く思った次第です。 しかしながら、そのようなニュースの中で、一度に一家5人を含む7人の方がお亡くなりになる痛ましい交通事故のニュースもあって、またまた暗い気持ちになりました。そして、そのような交通事故のニュースは、大きなものでなければニュースにもならないものもあって、全国で毎日20人程度の方々がお亡くなりになっているということです。(平成16年4月は、604人、5月は、582人) もう何ヶ月も前のことになりますが、イラクで3人の日本人が人質として拘束されたときには、3人の命を救うべく、いたるところで救出の努力がなされてきました。しかしながら、毎日、何十人もの人が交通事故で亡くなっているにもかかわらず、さほど話題にもならず、また、それに対する特別の努力もなされていないということは、一体どういうことなのでしょうか。 そこで、今回は、交通事故で多いエンジン搭載の車両(バイク、乗用車、トラックなど)のコンセプトについて考えてみたいと思います。 1.人間は誤りを犯す存在である まず、「人間は誤りを犯す存在である」という事実があります。また、機械などと違って忘れることも人間の特徴です。例えば、人間に対して定規を使わないで、まっすぐに線を描きなさいと言っても、それは無理というものです。 もちろん、この幅から出ないように線を描きなさいと言うならば、それはある程度描けるかも知れません。でも、誰かが声をかけたり、あるいは、体のどこかに痒みが急に走ったときなどは、その幅からはみ出すこともあるでしょう。 あるいは、あまりの眠さに途中から眠ってしまって、その幅から線がはみ出ることもあります。 つまり、このことは、人間というものは誤りを犯す存在である、ということを前提にして、物事が組み立てられべきである、ということを意味しています。ましてや、その誤りが命にかかわることであるならば、最優先で考えられるべきであるとも考えられます。 確かに、世の中に存在する色々な道具やシステムを見れば、まず安全第一としています。もちろん、自動車においても、どのような運転をされようとも、安全が第一とされるべきである、ということは当然と言えます。 2.たとえ誤りを犯しても救うのが仕組み 従って、利用者が、たとえどのような扱いをしたとしても、何とか救ってあげようとするのが、道具やシステムを設計して作る人の良心であると言えるでしょう。 私は、コンピュータの仕事を行っていますが、昔のコンピュータには「ゴミ箱」というコンセプトはありませんでした。従って、ファイルを消してしまいますと、もう復元が不可能でした。その時、自分の責任とは言え、泣く人が多く出たのです。 それを見ていたメーカは、これではいけないということで「ゴミ箱」を設けて、何とか誤りから救おうとしたのです。 もちろん、それは利用者のミスですが、あなたのミスなので、ファイルが消えるのは当然ですとは言えなかったところに、この問題に対する答えがあるように思います。 つまり、利用者のミスであるから、メーカは何も対策を設けなくてもいいのだとは、決して言えないのです。 3.戦闘機に見る脱出装置 現代では、何十億円もする高価な戦闘機に、パイロットの脱出装置を装備することは当たり前となっています。高価な戦闘機なので、何とか戦闘機を壊したくないと思うのですが、たとえ戦闘機は墜落しても、パイロットの命だけは救おうとしています。 つまり、命は、お金に代えることはできないという当然のことをしているのです。 しかし、どうでしょうか。自動車は、運転手や同乗者を大事にしているのでしょうか。居眠り運転したなら、それは運転者が悪いのであって、どこにぶつかろうとも自動車には責任はありませんよ、ということなのでしょうか。 何十億もする高価な戦闘機を見捨ててでも、人間の命を救おうとするのが当然のことではないでしょうか。 4.コストがかかるならば利益幅を縮小すべき でも、ここで反論が返ってきそうですね。もし、戦闘機と同じぐらいの装備を付けるとするならば、決してこの価格では売れませんと・・・。 では、なぜこれほどの利益が出ているのでしょうか。自動車メーカの中でも、もちろん不祥事を起こして過去最悪の業績にあえいでいるところもありますが、総じて自動車産業は、利益が高い業界です。 赤字になりなさいとは、誰も思っていません。赤字は、企業の存在を否定することになりますので、それは誰も望んでいることではありません。しかしながら、今の利益幅を圧縮してでも、一家5人が全滅してしまわないような装備を付けられないものなのでしょうか。 この人命を守るということに対して、もっと研究開発費を掛けられないものなのでしょうか。燃料電池車もいいと思いますが、まず人命を考えるなら、優先順位が間違っているのではないのでしょうか。 毎日、痛ましい事故のニュースを見るにつけても、涙を禁じ得ません。何の罪もないまだ学生である子供たちまでが交通事故で亡くなっています。彼らは、未来に対して非常な希望と、望みを持っていたはずです。 もし、自分が、中学生や高校生で死んでしまったとするならば、どれほど残念でしょうか。もう一度、生まれてくるというのは、大変なことなのです。それほど、今、地上にいるということはありがたいことなのです。 5.現代の自動車のコンセプトは間違っている 内燃機関が発明されてから、人類は、大きな動力エネルギーを手にすることができました。それまでは、馬に引かせた馬車や、自分の足でこぐ自転車しかありませんでした。 そのころ、スピードは出ませんし疲れることがありましたが、馬車や自転車のレベルでは、さほど大きな事故は起こりませんでした。しかしながら、エンジンを取り付けた時点で、その様相はまったく変わりました。 ただ四輪があったから、そこにエンジンを載せました。自転車があったので、ただそこにエンジンを取り付けましたではいけないのです。 つまり、それらは、走る「凶器」になりうるからなのです。 すなわち、意識するしないにかかわらず、エンジンを載せた時点で、そのコンセプトが変わってしまったということなのです。 ならば、このコンセプトを変えるしかありません。つまり、凶器とはなりようのない本来の乗り物とすべきなのです。 つまり、エンジンの組み込みと、それがぶつかっても、自分も他人も人命に危害を及ぼさないという仕組みを、セットで組み込むべきであると考えます。 ですから、今のままであるならば、自動車やバイクは、半製品と言わざるを得ないのではないかと思うのです。 願わくば、今までお亡くなりになった方々の苦しみや、家族の悲しみが無駄とはならず、今後の自動車産業がいい方向に導かれますように・・・。 それでは、次回もお会いいたしましょう。(竹内) |
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●平成16年08月17日 交通事故への対応策を考える |
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先回のコラムでは、自動車のコンセプト、とりわけ事故に関する考え方について述べてみました。そうしたところ、皆様から、「自動車に対して新たな視点を与えられました」「考えてみればそうですよね」などとのご感想を頂きました。そのご感想の中で、交通事故への対処策も考えて欲しいとのご要望も頂きましたので、今回は、それについて考えてみたいと思います。 私は、決して自動車の専門家でも評論家でもありませんし、ただのドライバー(現在ではペーパドライバー化していますが・・・)ですので、専門的に考えることは到底無理ではありますが、今まで述べてきました考える方法を基にして述べて参りたいと思います。命題は、「交通事故」です。 この命題に対して、「本質」「理由」「目的」「縁起」の切り口から考えてみます。今回は、「本質」と「理由」です。 1.交通事故の本質を考える まず、交通事故の本質について考えてみます。そもそも自動車などによる交通事故とは一体何でしょうか。少しそれについて挙げてみたいと思います。
以上、交通事故とは一体何かについて考えてみました。そうしますと、事故というものは、誰もが期待しない不幸な出来事であり、それは、運転者、自動車(機械)、環境(気象や道路など)の三つの要素によって引き起こされるということが分かりました。 つまり、交通事故の本質は、「不幸」であり、それは、「人間」「機械」「環境」の三要素からなるということが分かりました。従って、この切り口で、その対応策を考えればよいということになります。 2.交通事故の理由(つまりその原因)を考える では、なぜ、交通事故が起こるのでようか。次に、これを考える訳ですが、もうすでに前項の本質論にて三つの要素を発見していますので、交通事故の原因を、この三つの要素の切り口にて考えてみたいと思います。 (1)人間(運転者) ・運転未熟によるもの。 ・酒気帯び運転。あるいは、薬物によるもの。 ・居眠り運転や、極度の疲労によるもの。 ・わき見運転。携帯電話で話しをしながらの運転など。 ・運転中の病的な発作によるもの。 ・スピードの出し過ぎなどの無謀運転。 (2)機械(自動車やバイクなど) ・欠陥部品によるもの。現在某メーカで問題になっているような内容。 ・整備不良。ブレーキオイルが不足していたなど。 ・タイヤの磨耗などによる制動不足によるもの。 ・運転台からの視界不良によるもの。 ・車体の制動能力に比して異常に大きいエンジンの搭載によるもの。 (3)環境 ・道路のデコボコ。かまぼこ状になった道路など。 ・霧や煙による視界不良。 ・凍結などによるスリップ。 ・対面通行となっている高速道路。 ・信号機の輝度不足。あるいは、見えずらい信号機。 ・魔のカーブなど、よく事故が起こる場所。 ・駐車中の自動車がじゃまになって起きる事故。 ・眠気をさそう直線が続く高速道路。 などが考えられます。 このように交通事故が起こる原因を三つの要素に分解してみますと、交通事故に対する対応策も、この三つに分解された原因を取り除く方策を考えるか、あるいは、それがあっても交通事故にならないような方策を考えることが、その答えとなります。 従って、次の考える項目である交通事故の「目的」を考えるということは、すなわち、交通事故を無くし、幸福になるという目的を考える考えることになります。 次回は、特に人間のところに注目して、人間は誤りを犯す存在であるという前提に立ってその対応策を考えてみたいと思います。 それでは、次回も引き続きお読みいただければと思います。(竹内) |
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●平成16年08月27日 交通事故への対策を考える(続き) |
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ここのところ交通事故をテーマに述べてきましたが、その間にも、先日75歳の方の運転する乗用車が、国道を逆走して、4人の乗った軽四輪車と正面衝突し、軽四輪車の4人の方々がお亡くなりになったという悲しいニュースを耳にしました。 もちろん、国道を逆走する運転者が悪いのだということを誰もが言いますが、四人が亡くなったという事実は消しようがありません。たとえその責任の全てを運転者に課したとしても、四人は生き返りません。 毎日毎日、対策を立てないでいるうちに悲劇は続いています。この人類の危機のときに、ゆっくりしている訳にはいきません。一日も早く対策を講じるべきと考えます。 さて、先回のコラムでは、交通事故をテーマに、考える方法を駆使して、二つの切り口から交通事故を考えてみました。そこで、今回は残りのもう二つの切り口である「目的」「縁起」の切り口から交通事故を考えてみます。 3.交通事故のを無くす「目的」を考える 何のために交通事故を無くすのかということを考えてみます。そもそも、ガソリンエンジンが発明されていなかったころには、人々が、これほどまでに交通事故によって命を落とすということはありませんでした。 ガソリンエンジンの発明により、時速100Kmを超えて道路を走ることができるようになったということは、人間がそれだけ短時間に、別の場所に移動ができるようになったことを意味します。また、さらに鉄道のレールがないところでも、道さえあればどこにでも移動できることは、人間に対して行動の範囲を大幅に拡大してくれました。 このように、自動車は人間に対して大きな便益をもたらしました。これ自体は、人類に対して幸福をもたらしたことですが、一方で、事故に対する取り組みが弱かったのではないかと思います。 従って、交通事故を無くす目的とは、本来の自動車のいいところをそのまま引き出すということにあります。また、さらに、自動車自身に交通事故を起こす要素があるということは、自動車は交通事故対策を併せ持って初めて、本来の自動車になると言えます。 従って、交通事故対策を併せ持たない自動車は半製品であると言えます。ですから、事故を起こすような製品が平気で町を走っているとするならば、それは、もう神経が切れているとしか言いようがありません。 4.交通事故のを無くすとどうなるのか(縁起を考える) 先ほどから言っていますように、現在の自動車は完成品ではありません。ですから、交通事故を無くすということは、自動車が本来の乗り物としての機能を果たすことを意味します。 そのことは、人類の歴史からこのような半製品によって引き起こされる悲劇がなくなることを意味しています。これほど交通事故が毎日発生しているにもかかわらず、不思議なことに誰もおかしいと思わなかったことに、後世の人々は驚くことと思います。 5.交通事故を無くす方法 そこで、いよいよ交通事故を無くす方法について考えてみましょう。 先回のコラムで、交通事故が起きる原因は、@人間(運転者)によるもの、A機械(自動車など)によるもの、B環境によるものの三つが考えられると言いました。そこで、それぞれについて考えてみます。 @人間(運転者)によって解決する方法 人間は誤りを犯す存在であるということを述べましたように、人間に対してどこまでも交通事故を無くすことを求めるということは難しいのではないかと思います。飲酒したら運転しないように、疲れていたり眠いときは運転しないようにといい続けても、人間は病気をするものですし、もし、運転中に発作などが起きたらどうしょもありません。 従って、人間に対してどこまでも完全性を求める方向は、徒労に終わると予測できます。 A機械(自動車など)によって解決する方法 現在、各自動車メーカは、たとえ人間に誤りがあっても自動車自体でその誤りを修正して交通事故を起こさないようにする実験を重ねています。 例えば、レーダのようなカメラを自動車に取り付けておき、前方に障害物があると、自動的にブレーキをかけたり、また、運転者の脈拍やまばたきをセンサーで監視して、居眠りをしたなら警報を鳴らすなどの仕組みを考えています。 現在では、シートベルトやエアーバッグなどの仕組みはすでに当たり前となっています。 しかしながら、これらは補助的なものであって、国道を逆走する自動車を止めることはできません。 また、いくらいいセンサーをつけても、運転者がまったく間違った道を行くなら、これも止めようがありません。 B環境(道路など)によって解決する方法 私は、この方法が一番がいいのではないかと思っています。すなわち、道路の上か、あるいは、道路のアスファルトの下に誘導のための電線などを張っておき、自動車がその道路に入ったら、自動運転できるようにします。 一旦、その誘導道路に入れば、目的地まで自動的に運転してくれますので、このときはカーナビも不要になるでしょう。また、前方の自動車と適切な車間距離を保ち、法定スピードで運転してくれますので、事故の起こりようがありません。 ただ、運転者によっては、どんどんと他の車を追い越したり、法定スピードを大幅に超過することにスリルを感じるという人も居ますので、そのような人たちには、自動車のコンセプトが変わったのだということを納得してもらいます。すなわち、もはや、自動車ではスリルは得られませんよと。 自動車は、電車と同じく、決まった時間をかけて目的地まで安全に移動することを自動車の目的とします。 ですので、スリルを味わいたい人は、自動車を手段にするのではなくて、スポーツとしてサーキットなどで自動車をマニュアル運転すればいいでしょう。もし、サーキットで事故を起こせば、それこそ自己責任だと言えるでしょう。 つまり、結論として言うならば、現在の自動車のコンセプトが間違っているならば、それを変えない限り何の問題解決にもならないということです。今こそ原点に戻って、再度、自動車とは何かを問い直すことこそが必要なことではないでしょうか。 それでは、次回も引き続きお読みいただければと思います。(竹内) |
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