●平成17年07月07日 人は、なぜ考えられるようになったのか |
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皆様、こんにちは。 この七の日コラムも、七月七日だけは、七が二つ重なる特別の意味を持っていますので、今回は、「考える」シリーズの特別回として、「なぜ、人は考えられるようになったのか」ということについて、述べてみたいと思います。 ご存知のように、考えるという言葉の意味は、広義に解釈されて「反応する」あるいは、「考えさせられている」という意味も含んでいます。 しかしながら、本来の考えるという意味は、本能によって考えさせられているものではなくて、自発的に問題意識をもって考えることにあります。 従って、お腹が減ったら何を食べようかと考えることや、寒い日に、何を着て外に出て行こうかと考えることは、本能によって考えさせられているのであって、ここで言う本来的に考えるということではありません。 本来的な意味での考えるということは、例えば、本シリーズで提案している「四考法」のように考えることであります。つまり、次のようなことでもあります。
では、これらを考えられるようになるためには、どのようなことが必要なのでしょうか。 1.本質 ものごとの本質が分かるためには、ものごとを正しく見て判断する能力が必要です。つまり、正しく見るということができるようにならなくてなりません。 実は、仏陀は、すでに2600年前にこの必要性について説かれました。それが、かの有名な「八正道」の中の「正見」なのです。 では、ものごとを正しく見るためには何が必要なのでしょうか。 それは、正しい「ものさし」を持っていなければ良し悪しの判断もできないのと同じで、「ものさし」に当たるものが必要となります。 それが、実は、「真理」と言われるものなのです。つまり、真理を知ることが必要なのです。 そして、さらにはその真理が正しいものであると信じる力、つまり、信仰の力が必要となります。 これほどの情報社会の中であっても、それが正しいと信じていなければ、その知識は、単なる通り過ぎる情報にしか過ぎません。信じてなければ、それに従って、ものごとを見たり判断したりすることはできないからなのです。 2.理由 「なぜ」ということを考えるためには、ものごとには必ず理由があるという法則を、まず、自分で納得しておかなければなりません。 夢遊病者は別として、人が行動するときには、必ず理由があります。理由のない行動はありません。 ですから、ものごとが存在するときも、人が行動するときも、何か理由があるはずです。もし、理由がないならば、その存在も行動も必要がないということになります。 これも、お釈迦様が、菩提樹下で三道(惑・業・苦)(*1)を悟られて、人々に説かれた内容です。 そもそも、そのような考え方があることすら知らない人が、多いのではないでしょうか。 このように考えれば、何が原因となって、そのようになっているかが分かりますよと示されると、人々は、その方法によって考えられるようになれるのではないかと思います。 3.目的 次に目的ですが、「何のため、何が目的なのか」を考えると言うことは、これは、もう理想の姿や本来のあるべき姿が分からなければ、出てこないことだと思います。 つまり、人々は、常に何かを目指して歩く存在であると言えます。別に目的もなく、その日暮らしも楽しいものだという方もおられると思いますが、人間が創られたときから、ある目的を目指して進んでいくようにプログラムされていると思います。 その目的とは何か。 最高に善であり、最高に美であり、最高に良きものであり、最高の真実であり、それは、つまり人類の理想そのものであると言えます。 それが目的となって、日々の生活や仕事が、毎日なされていると言っていいでしょう。ですから、何が理想なのか、何が最善なのかを知らなければ、目的を考えることもできないと言えるかと思います・ 4.縁起 そして、最後に縁起です。これは、前述の2番目の理由とも関連しますが、理由となる原因があったら、必ずその結果が現れるということです。これが法則なのです。 これを、不昧因果【ふまいいんが】と言って、因果の理法は絶対にくらますことはできない(*2)のです。この法則が宇宙を統べている法則であって、すべての存在や事象はその法則のもとにあるということを知って初めて、縁起によって考えていくことができるのです。 ですから、この縁起でものごとを考えるということは、その法則を知って、それによって考えていくことに他なりません。 以上、色々と述べましたが、本能にまかせて考えることは別として、自発的に問題意識を持って考えるためには、知識が必要であるということがお分かりいただけたのではないかと思います。 それも、その知識は単なるハウツー的な知識ではなく、宇宙の法則や理想の姿を示す知識であって、これを「真理」あるいは「法」と呼ぶものであることを、発見されたのではないかと思います。 実は、この「真理」あるいは「法」は、経験によって得られるものではなく、預言者(神の言葉を預かる人)が、まれに地上に生まれられたときに説かれるものであり、その言葉によって人類は考えることができるようになったと言えるのです(*3)。 ですから、昔から偉大な方のご生誕は、大きなお祭りになっているのです。イエスキリストのクリスマスや、お釈迦様の花祭りがそれに当たります。 そして、現在、新しいクリスマスであり、新しい花祭りが、この七月七日であると言えるのではないでしょか。 それでは、次回もお会いいたしましょう(竹内)。 (*1)『悟りの挑戦(上)』第6章「業と輪廻」2「惑・業・苦」(幸福の科学出版);(*2)『沈黙の仏陀』P.38(同);(*3)『永遠の仏陀』P.28(同)
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●平成17年07月17日 製造業務の理由を考える |
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先々回のコラムでは、製造業務は幸福の創造と鉄砲の弾であるとも述べました。この両者は、互いに逆のことを意味するようにも見えますが、また融合されるものであるとも述べました。そこで、今回は、考える方法(「四考法」)の第二の項目である、製造業務の「理由」について述べてみたいと思います。 すなわち、なぜ製造業務があるのか、なぜ製造業務を行うのか、これについて考えてみたいと思います。 今回も、例の如くブレーンストーミング法によって、考えてみたいと思います。 つまり、なぜ製造業務があるのか、なぜ製造業務をするのかを考えます。
以上、ブレーンストーミング法によって、なぜ製造業務があるのか、なぜ製造業務を行うのかということを考えてみました。 ある登山家に、「あなたは、なぜ山に登るのですか」と問うたところ、「そこに山があるから」という言葉が返ってきたということです。 なぜ、ものを作るのですかと問われたら、「そこに材料があるから」というのが、答えかも知れません。つまり、この地球上には、材料が溢れています。それらは、早く加工して、自分たちを人類の幸福のために役立てて欲しいとでも言っているようにも思えます。 優秀な仏師になりますと、木を見ただけで、その中にある仏像の姿が見えると言います。単なる丸太の木であっても、その中にある仏像が見えるらしいのです。 ですから、製造業というのも、地球上の材料や素材に命を与えて、それらに活動の機会を与える行為であると言えるかも知れません。 かつては、地中深く埋もれていた色々な鉱脈が、精錬されて、あるものは、車のボディーになり、あるものは、消防車のハシゴとなって、人々を救っているのです。 そう考えますと、ものを製造するということは、規模は非常に小さいながらもこの世界を作った神様のような貴い仕事をしているのだとも言えます。 だからこそ、作ることに心がこもってくるのだと言えるのではないでしょうか。 では、次回もこの続きについて述べて参りたいと思います。(竹内)
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●平成17年07月27日 人は、なぜものを創るのか |
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先回のコラムでは、製造業務における考える力(「四考法」)の応用の「理由」について述べて参りました。そこで、企業にとって、なぜ製造業務があるのか、なぜ製造業務を行うのかについて考えて参りました。 それを考えてみますと、そもそも人は、なぜものを創るのかという根源なる問いかけにぶつかってしまいました。 そもそも、なぜ人は、ものを創るのでしょうか。それを考えてみたいと思います。 1.人間は、自然のままだと生きていけない まず、衣食住を考えてみたいと思います。人間は、動物と違って、寒いところでは服を着なければ生きていけないようになっています。それは、犬や猫のように毛がないからです。人間は、裸で雪が積もるところに放っておかれたならば、風邪をひいて、やがては凍死してしまいます。 ですから、自分の智恵と工夫で着る物を作っていかなければ、生きていけないようになっているのです。 また、食もしかりです。果物や生で食べられる野菜もありますが、お米やパンのように、調理しなければ食べられない食物が多いのです。牛は、草を平気で食べますが、人間はそういう訳にはいきません。火を通して、調理をしなければ食べられません。 住もそうです。自然の中には、洞窟など雨風から人間を守ってくれるようなところもありますが、それは限られたところにしかありません。 従って、雨風を防ぐためには、家を建てなければなりません。それが、木の葉っぱや泥やワラで作られようとも、人間がそれらを組み合わせて住居にしなければならないのです。 以上のように、自然は大変慈悲深く私たち人間に、多くの素材を提供してはくれていますが、それは、そのままでは使えないようになっています。それは、あたかも、自分で考えて加工しなさいとでも言っているようにも思えるのです。 2.自然は、加工が前提に創られているのではないだろうか 前項で、人間は、自然のままでは生きていけないことを述べましたが、一方、自然を改めて見ていますと、それは加工することを前提に創られているようにも思えます。 例えば、木です。葉っぱが茂る木をそのまま使うことはできませんが、枝を切り落とし、丸太にすれば、それはイカダになるし、また丸太小屋にもなります。さらに、その丸太を縦方向に、ある厚さに切ることによって、木の板を作り、その板を机にしたり、家の壁にすることもできます。 また、その丸太には、像を彫って仏像にすることもできます。そのように、あまりにも加工しやすいように木が創られています。実に不思議です。 金属にしてもそうです。金属は鉱脈の中に地中深く埋まっていますが、ある温度によってそれらを溶かして、望みの板にしたり、棒にしたり、パイプにもできます。あたかも、溶かして色々な形にしてくれと言わんばかりです。 調理についても述べましたが、お米、パン、大根、なすび、魚、肉など、火にかけて調理してくれと言わんばかりです。 実は、自然というものは、私たち人間に加工してもらわんがために、神によって創られていると言えるのではないでしょうか。 3.人間は、もともと創造の性質を持っている 加工を前提とした自然、そして、それらを加工をする人間、この両者の絶妙な組み合わせがこの地球が創られた時のコンセプトかも知れません。 人間は、ものを見ますと、それをさらに自分の好みのもの変えられないものだろうかと考えます。例えば、目の前に粘土があれば、それをこねて、そこに何かを創り出そうとします。 目の前に紙があれば、それを折ったりして、折り紙を作ろうとします。 そのように、人間は、考えて何かを作ろうと常にしているものなのです。それが創造的性質(*1)と言われるものではないでしょうか。 人間は、本能に左右されず、自由に自分の意思で色々なものを創り出すことができるということろが動物と違うところではないかと思います。 いや、自由に色々なものを作り出せるところが本能かも知れません。従って、人間が、そこに居るということは、そこに新たな人工物ができるというとこを意味していると思います。 ですから、他の天体に人間らしい生き物が居るか否かは、そこに人工物があるかどうかを見れば分かると思います。 従って、人間によって運営されている企業が、新たな物を作って、それを人々に供給し、そこから価値分だけの報酬をもらって、その利益にてその企業が存続するということは、人間の創造的性質の自然な現れではないかと思うのです。 ですから、企業における製造業は、人間の本来の性質を伸ばす絶好の環境であるとも言えます。 それでは、次回もお会いいたしましょう(竹内)。 (*1)『太陽の法』第二章(幸福の科学出版)
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●平成17年08月07日 製造業務の目的を考える |
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先回のコラムでは、製造業務の理由について述べました。そこで、そもそも人は、なぜものを創るのかということについて考えてみました。そうしますと、人間は、もともと創造の性質を持っているという発見もできました。 そこで、今回は、「四考法」の3つ目の項目である「目的を考える」について述べたいと思います。 すなわち、何のために製造業務があるのか、何のために製造業務を行うのか、これについて考えてみたいと思います。 それでは、今回もブレーンストーミング法によって、製造業務の目的について考えてみましょう。 何のために製造業務があるのか、何のために製造業務を行うのか。
以上、ブレーンストーミング法によって、何のために製造業務があるのか、何のために製造業務を行うのかということを考えてみました。よく考えますと、会社と消費者との接点は、製品にあると考えられます。 もちろん、会社のお問い合わせの窓口も企業は用意していますが、消費者はその窓口に毎日電話をかける訳ではありません。消費者と企業とのコミュニケーションは、その製品を通してなされていると言えます。 従って、企業が製造する製品は、企業のそのものの姿を表現することになり、非常に重要なことであると言えます。 そのように考えますと、ものを作るということは、単にものに加工を施すだけでなく、その奥に深い意味を持っています。その意味を理解することが、ものづくりの成功の鍵を握っていると言って過言ではありません。 それでは、次回は、この意味についてさらに考えてみたいと思います。(竹内)
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●平成17年08月17日 製品は多弁に語る |
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先回のコラムでは、製造業務における考える力(「四考法」)の応用の「目的」について述べて参りました。そこで、何のために製造業務があるのか、何のために製造業務を行うのかについて考えました。
そこで、消費者と企業との接点は、製品にあることが改めて確認されました。 では、その製品の持つ意味とは何でしょうか。それを、少しここで考えてみたいと思います。 1.企業は、自社の製品を通して自社の技術力を消費者に伝える 企業が製造した製品は、やがては消費者に渡り、それを製造した企業の中にあった時間よりも、はるかに長い時間を消費者とともに過ごすことになります。 例えば、自動車は、自動車メーカの製造ラインに3日、あるいは1週間乗っているかも知れませんが、一旦、その自動車が消費者の手に渡ったならば、4〜5年は使われますし、場合によっては、10年以上も使われることになります。 もし、その自動車が、通勤用に利用されているならば、それこそ毎日、消費者と接することになります。 そのとき、その製品は、消費者に多くを語ることになります。それは、毎日一緒に過ごしている家族との会話が多くなることに似ているでしょう。 ですから、毎日接している製品は多弁です。自分がどれほどの技術力があるのか、毎日語ってくれます。ましてや、10年も20年も一緒に接しているならば、自分の本性を相手に隠せる訳はありません。 従って、いくらその企業がTVのコマーシャルを使ってその製品を宣伝しようとも、それが手に渡った消費者には、全てが伝わってしまいます。 ですから、消費者に渡る製品とは怖いところがあります。なぜなら製品は嘘がつけないからです。企業がコマーシャルで、いくらいいことを言っても、それを使った人にはすぐにばれてしまうからです。 従って、まずは自社の製品は正直であるということを知らなくてはなりません。 2.企業は、自社の製品を通して自社の精神を伝える さらに、製品は、自社の技術力だけを消費者に伝える訳ではありません。その企業が、何を考えているかをも消費者に伝えます。 例えば、安全性への配慮です。たとえ、技術的に優れていたとしても、危険であったならば、利用者へのを配慮をしていなかったと言うことになります。 また、使いやすさへの配慮もそうです。子供から大人、そして、老人にも使えるような配慮が必要です。その製品がもし使いづらいならば、その企業が、「使えないのは、消費者が悪いのだ」というように考えていると採られても文句は言えません。 さらに、地球環境やエネルギーへの配慮です。馬力は充分にあるが、公害を撒き散らすような車を製造していたならば、その企業は、環境への配慮は全くしていないということを表明していると言わざるを得ません。 だから、物づくりは、誠実でなければできない仕事です。消費者に、自分の考えていることがその製品を通して筒抜けになるからです。 3.企業は、自社の製品を通して世の中に貢献する 企業は、製品を通して世の中との接点を持っています。その製品を通して、新聞の宣伝やTVのコマーシャル以上に、世の中に語りかけているのです。 そして、語るだけでなく、結果的にその製品を通して世の中に貢献することになるのです。 企業が製品を作る目的は、それを通していかに社会に貢献できるかにあると言えます。いい製品を創って、多くの人々に便益を与え、それによって多くの人々に幸福感を与え、結果的に社会をユートピア化(*1)していくことが企業の目的であるとも言えます。 また、多くの人々が、自社の製品によって幸福になった姿を見て企業もまた幸福感を味わう、そのような幸福の循環こそが、企業の目的ではないでしょうか。 そのように考えますと、自社の製品で事故が起こったり、人が怪我をしたり死亡したりするならば、これは、企業の目的に反することとなり、その企業の存在そのものが危ういことになります。なぜなら、社会に害になる企業は、企業の目的に反することになるからです。 以上、述べましたが、企業が製品を創るということは、単なる営利活動を超えて、社会のユートピア化に貢献するものであると言えます。 そう考えますと、毎日、製品を創る仕事にも心がこもってくるのではないでしょうか。 それでは、次回もお会いいたしましょう(竹内)。 (*1)『幸福の法』第4章、第5章(幸福の科学出版)
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●平成17年08月27日 製造業務の縁起を考える |
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先回のコラムでは、製品は多弁に語ると題して述べました。世の中では、コマーシャルを始めとして色々と製品の説明がなされていますが、実は、商品自身が一番よく真実を語ってくれるものだということを述べました。 そこで、今回は、「四考法」の四つ目の項目である「縁起を考える」について述べたいと思います。 すなわち、製造業務を行うとその後どのようになっていくのか、これについて考えてみたいと思います。 それでは、今回もブレーンストーミング法によって、製造業務をすると、その後どうなるのかを、思いつくままに挙げてみましょう。
以上、ブレーンストーミング法によって、企業が製品を作ると、その後どのように展開されていくかということについて考えてみました。 企業は何か売るものが無ければ、お金が入ってくることはありません。お金が入ってこなければ従業員に給料を払うことができません。さらに、材料を仕入れることもできません。 次の製品を作れないとするならば、そこで、その企業の活動はストップしてしまいます。つまり、お金という血液が止まったならば、それは企業の死を意味しています。 従って、まずは付加価値のあるものがなければ企業活動は持続できないのです。そこから全てが動き出していくのです。 一方、もし企業がいい製品を作ったならば、その製品が多く売れるだけでなく、それを買った消費者に喜びをもたらすことになります。それは、企業も消費者も幸福となり、その喜びが広がって世の中までをも幸福にします。 例えば、戦後の洗濯機や掃除機などの家庭電器製品の普及によって、女性が家事の重労働から開放されました。その電気製品は、単なる製品であった訳ですが、それが世の中に出されることによって、世の中まで変えてしまいました。 もちろん、女性が家庭から外に出て働くということには賛否両論あるかと思いますが、女性を家事の重労働から開放した意味は大きいと言えます。 そのように、自分としては単に製品を作っているだけかも知れませんが、それが、意外と大きな影響を他に与えるものなのです。だからこそ、製造業務について深くその意味を考えることが重要であると言えるのではないでしょうか。 それでは、次回も、この続きについて考えてみたいと思います。(竹内) |
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