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    ●平成15年04月07日 春が来た(心をウキウキとさせよう)

 

 厳しい冬が過ぎ去って、やっと待望の春がやってきました。以前のコラムにも書きましたが、四季があることはありがたいものですが、やはり寒い冬はつらいものですね。その冬も去り、桜の花が咲きチューリップの花が咲きますと、不思議なもので心もウキウキとするのは私一人だけではないと思います。

 そこで、今回のコラムは、米英同盟軍対イラクとの激しい戦争や経済的な暗さがある中ではありますが、楽しい話しをしてみたいと思います。

 なぜなら、心というものはよく風呂敷にたとえられることがありますが、たとえば風呂敷の真中に石を置いて、風呂敷の四隅を持ち上げますと、中央の石の部分が逆ピラミッドとなって落ち込みますし、逆に風呂敷を広げておいて中央を指でつまんで引き上げますと、周りもつられて上がってくる状況によく似ていると言われています。

 つまり、苦しいことや嫌なことがあったら、心という風呂敷はその苦しみである石の重みによって周りの布まで巻き込んで落ち込んでしまうということがあるのです。

 すなわち、1つのマイナスの出来事はそれだけに止まらず、周りのものまでその影響を及ぼしていくと言うことを意味しています。

 例えば、受験に失敗したといたしましょう。それは残念でくやしいことだと思います。しかし、受験に失敗したという悲しい思いは、勉強という面だけに止まらず、日常の生活にまで悪影響を及ぼすことになってしまいます。

 例えば、受験に落ちた後は外出したくなくなるとか、あるいは、その後はなんとなく人と会いたくないというところまでいくこともあるでしょう。外出とか人と会うということ自体は何ら受験とは関係のない事であるはずなのですが、そのマイナスの思いが波及して周りに影響を与えていきます。

 その様子がよく風呂敷にたとえられると言うことなのです。

 しかしながら、ここに大きな救いがあります。つまり、逆も真なりということです。つまり、この風呂敷理論は、落ち込みだけでなく、浮上の理論にも適応できるという事実があります。

 それはつまり、風呂敷を机の上に広げてその中心を指でつまんで引き上げてみることに似ています。

 どうでしょうか。その中心をつまんで引き上げますと、周りの布までそれにつられて上がってくるでしょう。これは先ほどの落ち込みの理論とはまったく逆のことですが、実は同じ原理の応用でもあります。

 ということは、心が浮上する何か楽しいことや嬉しいことが1つでもあれば、周りのことまで上がっていくということを意味しています。

 先ほどのたとえとは逆ですが、入学するのが非常に難しい名門の学校に見事合格できたとすればどうでしょうか。

 それこそ、それだけで有頂天になり少々の困難があっても気にしなくなるのではないでしょうか。受験合格者の発表会で自分の名前を見つけたら、そのあと雨が強く降ってきたにもかかわらず、傘もささずに家まで帰ってきたとという話しを何度か聞いたことがあります。

 ですから、この原理を応用して嬉しいことを創ろうということなのです。

 しかしながら、そんな嬉しいことは創れないし、またあるはずもないという方もおられるでしょう。

 でも待って下さい。嬉しいことは発見すればいくらでもあります。ただ当人が発見できていないだけの場合多くあるのです。

 では、ここで考えてみましょう。

1.お金がなくて落ち込んでいる人へ

 あなたは今健康ですか? 病気中ではありませんか? もし病気ではないならば、それはそれは嬉しいことではありませんか。現在ただ今、病気で苦しんでいる人は多くおられます。その人たちからあなたを見たならば、大変羨ましく見られるに違いありません。

 こんなことを聞いたことがあります。ある病気の末期症状で苦しんでいる人が、おれの財産を全部やるから、この痛みを10分でもいいから取り除いて眠らせてくれと言ったそうです。そういう人から見れば健康とは本当にありがたいものです。

2.失恋した人へ

 あなたにはお母さんやお父さんがおられますか。もしおられるならば、それは嬉しいことではありませんか。恋人には振られたかも知れませんが、絶対に振られないお母さんやお父さんがおられるではありませんか。世界には、両親も知らずに成人した人も多くおられます。そういう人たちから見れば何と幸福なことでしょうか。

3.色々な挫折や悩みで苦しんでいる人へ(共通)

 あなたは、この地上には水があったり自然があったりすることは幸せだと思いませんか。もし、今自分が月面にいるとしたらどうですか。あの花々を見て感動しませんか。あの緑の山々や、あの青い海があることはすばらしいことだと思いませんか。

 また、色々な国があり、そこには色々な珍しいものや、感動するような景色のところがあるということは、わくわくしませんか。

 あなたは、太陽が照っているときに何か嬉しくなりませんか。また水平線に沈みゆく夕日を見て感動したことはありませんか。

 このように、地球にはまだまだわくわくする自然の恵みが多くあります。ただ当たり前だと思ってそれらの素晴らしさに気が付かないだけのことなのです。

 実はそれらを発見するいい方法があります。それは、もしそれらがなかったらどうなのかを考えてみることです。今、自分が月面にいるとしたらどうなのか。もし自分が真っ暗な宇宙空間に一人ぽっちで漂っていたらどうなのか。それを考えてみますと、この地球上にいること自体が嬉しいことだと発見できるのではないでしょうか。

 以上、風呂敷理論にしたがって心の浮上について考えてみました。人間というものは考えひとつで、浮いたり沈んだりするものだということを改めて分からせていただきました。ならば、常に心を浮かせなければ損だという気持ちになるのは私だけではないような気がします。(竹内)

   ●平成15年04月17日 むしろ与えられていることを発見しよう

 

 先回のコラムでは、風呂敷理論についてお話しを致しました。その理論の趣旨を一言で表現するならば、風呂敷の中心を指でつまんで引上げるとその周りもつられて引き上げられるように、心に何か1つでもいいからウキウキとさせるものを持って、心を浮き上がらせましょうよと言うことでした。

 さて、今回はものの見方によって幸不幸が決まるということについて述べていきたいと思います。題して「むしろ与えられていることを発見しよう」です。

 私たちは、毎日の生活の中で常に問題意識を持って生活をしています。問題意識と言えば聞こえがいいのですが、簡単に言えば「悩み」ということになります。

 例えば、昨年末に出たボーナスが同期のA君よりも百円少なかったが今年の夏のボ−ナスはどうだろうかとか、子供が小学校に入学したので勉強のためにもう一つ部屋が必要になるのではないかとか、うちのお父さんは来年定年だが退職金は満額出るのだろうかなどと、問題(悩み)が次から次へと出てくるものです。

 私も経験があります。同期に入社した仲間の給料やボ−ナスは気になるもので、もしちょっとでも少なかったならば心穏やかでなかった記憶があります。また、昇進についても同様でした。

 このように人間というものは、他と比べてもしその差があれば、それが気になるような傾向にあるのではないかと思います。企業における売上についてもそうです。経営者は常に他社と比べて売上が上か下かを気にします。

 実は、これはこれで向上の原理に結びつくもので一概に否定できないところがあります。また会社や組織にとっては、これを問題にしなければ生き残ることはできないぐらいの重要な問題でもあります。

 しかしながら、このような考え方を常にしていますと段々とその考え方に染まってしまい、何でもかんでもこのような考え方をしてしまうという恐いところがあるのではないかと思います。これを仮に「差分主義」と呼んでみましょう。

 つまり、このような「差」だけに注目する考え方は、差の無いところを無視し、割合的に小さいその差の部分のみが誇張されて大きな問題や悩みになってしまうことが少なくありません。

 そこで、私は差に注目することよりも、むしろ既に与えられている部分に注目したいのです。それを「既分主義」とでも呼ばしていただき、今までの「差分主義」とは区別して考えていきたいのです。

 例えば、先ほどのボーナスの例でいうならば、自分にボーナスが30万円出たとします。一方、同期のA君は、30万百円だったとします。そのとき、その差である百円を大きく見るか、それとも与えられたほうの30万円を見ていくかで、その後の幸福感が違ってくるということなのです。

 私は、是非とも与えられた部分を見ていきたいと思うのです。

 そこで、その他の色々なケースでの「既分主義」におけるものの考え方を示していきたいと思います。

(1)試験の点数

 ある試験の点数が帰ってきたところ、自分は94点でAさんは96点だった。2点の差をくやしいと思うのか、それとも94点も取れたことを嬉しいと思うのかということです。このときは、是非とも取れた点数のほうを見ていきたいと思います。

(2)背の高さ

 私の身長は172cmで、A君の身長の175cmよりも3cm低い。この3cm低いことをくやしいと思うか、それとも自分の身長が170cm台にあることを喜ぶかです。3cmの差ばかりが気になり、身長が170cm以上あることを忘れてしまってはいけないと思います。

(3)競技での順序

 オリンピックに出場できたが、メダルを取れなかった。メダルを取れなかったのをくやしいと思うのか、それともオリンピックに出られたことだけでもありがいと思うのかです。実はオリンピックに出場しただけでも素晴らしいことなのに、その後自分の力不足を嘆いて自殺をした人もおられると聞いています。これも考え方でその後の幸不幸が変わってくる例です。

(4)会社での昇進の順序

 同期のA君は自分よりも半年先に課長になった。これをくやしいと思うのか、それとも世の中の不況の中にありながら現在もこの会社の従業員として勤められることをありがたく思うのかです。

(5)結婚が遅れてしまったという人に

 同級生のA子さんは、もう結婚してしまった。自分は、結婚が遅れてしまってくやしいと思うのか、それともこの年齢まで健康に生きてこられたことをありがたく思うかです。

 さらに、自分はA子さんよりも10年長生きするのだと思えば、1〜2年ぐらい早く結婚されたとしても何とも思わなくなるのではないでしょうか。この考え方は自分が浪人してしまったときにも使える考え方なのです。つまり、それだけ長く人生を生きることを考えれば、遅れてしまったことに対しては全て解決がつくことだからです。

 以上、個人のレベルでの幸福になる考え方について述べさせていただきました。もちろんこの考え方をそのまま企業や組織に適応することはできませんが、個人のレベルではかなり有効な幸福のための考え方ではないかと思います。

 つまり、人間というものは既に与えられていることに対してあまりありがたさを感じずに、与えられていないほうのことに対して不満を持つ傾向にあります。よく子供が、もう既にたくさんのオモチャを持っていながら、さらに他人が持っているオモチャを欲しがるところがありますが、これに似ているでしょうか。

 その与えられているところの発見は、実は感謝の思いへとつながっていくものなのです。この感謝の思いこそが人間を幸福にする鍵を握っているということを改めて認識した次第です。(竹内)

   ●平成15年04月27日 自分の自由になることと自由にならないこと

 

 ここのところ、ものの考え方についての話しを続けていますが、この考え方というものには大きな力があるものだと改めて発見してしている次第です。そこで、今回もさらにものの考え方についての話しを続けていきたいと思います。

 それは、「自分の自由になることと自由にならないこと」についての発見です。

 犬や猫などペットを飼っておられる方はよくご存知だと思いますが、彼らは鏡を見て吠えたり、じゃらけたりしますが、それを人間が見てバカだなと思うことが多くあります。

 鏡には姿が映っているだけでありその実体がある訳ではないということを人間はちゃんと知っているのですが、ペットにとってはそれが分からないからバカだなあと思うのです。

 しかしながら、人間だってペットのようなことをすることが少なくありません。いや、結構そのようなことをしていることが多いと言ってもいいかも知れません。

 つまり、ペットが鏡の相手に働きかけるように、人間も一生懸命に鏡に写っている相手に働きかけようとすることがあるのです。すなわち自分の自由にならないことがあるにもかかわらず、それを何とかしようとしてむだな努力をすることがあるのです。

 ではそのむだな努力となってしまう自分の自由にならないこととは何でしょうか。それは、「過去」と「未来」と「他人の心」だと言われています。

 この3つ見てみますとなるほどその通りなのですが、実にの幻の鏡の姿に働きかけようとして徒労を繰り返している人も多いのではないでしょうか。では、それぞれについて具体的に考えてみたいと思います。

(1)自由にならないものの第一、「過去」。

 これは文字通り過ぎ去ったことです。過去に大きな過ちを犯したり、愛する人との別かれなどのつらい出来事を経験されたこともあると思いますが、過去という時間はタイムマシンを持ってこない限り取り戻すことは不可能なのです。

 であるにもかかわらず、今でも過去のことを「こうすればよかった」「こうならなければよかったのに」と思い続けている人が多いものです。ことわざにも「死んだ子の年を数えても仕方がない」とありますように、過去のことをいくら悔やんでみてもそれが修正されることはありません。

 例えば、「自分はこの大学の受験に失敗したが、もし受かっていたらこんなことにはならなかったのに残念だ、もう一度受験したい」などとずっと思っている方もおられると思いますが、過ぎ去った時間は自分でどうすることもできません。

 ならば考え方を変えて、自由にできないものはさっぱりとこだわるのを止めて、これからどうしていけばよいかを考え、そして、それを実行に移すべきだと思います。

 過去は自分の自由にはならないということを知っているだけでも、人間はその分幸せになれるのではないでしょうか。私は強くそう思います。

(2)自分の自由にならないものの第二、「未来」。

 過ぎ去った時間を自由にすることができないのと同様に、まだ来ぬ未来も自由にすることはできません。

 これを取り越し苦労と言って、むだな苦労であるとよく言われています。しかし、そうであるにもかかわらずむだな苦労をしている人が多いのも事実です。例えば、自分の会社は大丈夫だろうか、自分はリストラされないだろうかとか、老後の年金は全額もらえるのだろうかとか、また自分の子供はちゃんと立派な社会人になってくれるだろうかなど、取り越し苦労にも色々とあります。

 もちろんそれが転ばぬ先の杖のように、現在に注意しておくべき備えの議論になればいいのですが、ただ単に未来のことを思い煩うことは、先ほどの鏡に写った相手の姿に触ろうとしているだけことのように思います。

 犬や猫がやっていればおかしく思う人間ですが、自分が同じことをしていてもおかしいと思うことができないことが人間の盲点であるように思われます。

 その意味で、先回のコラムで「一日一生」の思いで生きましょうと述べさせていただいたのです。

(3)自分の自由にならないものの第三、「他人の心」。

 他人の心は自分の自由にならないというこの単純なことを知らない人も多いものです。実を言いますと、私もふと気がつくとそのことを忘れてしまっている時も多いのです。

 例えば、相手を何とか自分の思いどおりにしたいと思うことがあるのですが、よく考えますと、これも鏡に映った相手に触ろうとしていることなのです。

 よく、「あなたにこうなって欲しいの」と言う人もいますが、しょせんそれは無理なことなのです。ですから、例えば自分の親が自分のことをこう思ってほしいとか、自分の上司がこう思って欲しいとか、妻や夫がこう思って欲しいと思っても無理なのだということを知ることが必要なのです。つまり、相手の心を自分の自由にすることはできないと知ることなのです。

 以上、自由にならないことの3点を述べましたが、では逆に自分の自由になることはないのかということになりますが、実はあるのです。それは、「現在」と「自分の心」なのです。

(1)自分の自由になるものの第一、「現在」。

 過去と未来という時間は自分の自由にならないと述べましたが、しかしながら現在という時間は100%自由になります。今現在、図書館に行って勉強することも、スポーツジムに行って泳いだり、トレーニングして体を鍛えることは100%可能なのです。

 つまり、この現在という時間を利用して、現在を有意義なものに変えていくことは十分にできるのです。例えば、自分は小学校しか出ていなかったとしても、現在から大いに勉強をすることによって大学卒業以上の知識を手にすることができますし、またその知識を元にして未来をも間接的に変えていくことも可能なのです。

 未来は、その時点時点の積み重ねによって創られていきます。ならば、その一つひとつを輝くものにすれば、それらの積み重ねの結果も輝いてくるということは容易に想像がつきます。

 つまり、現在を機縁とし、原因結果の連鎖によって間接的に未来を創っていくことは可能だということなのです。実は、その鍵を握っているのが現在なのです。

 もし、将来を思い煩うヒマがあったら、むしろ今日という日を効果的で実りの多い一日とするべきだということです。

(2)自分の自由になるものの第二、「自分の心」。

 他人の心は自由にならないと言いましたが、実は自分の心は100%自由になります。他人を自分の好みに合わせて考えさせることはできませんが、自分自身がどうのように思うか、あるいは感じるかは自分の自由なのです。

 例えば、相手が私のことを「バカ」と言ったとします。その他人が「バカ」と言うのを止めることはできませんが、「バカ」と聞いた自分がどのようにそれを受け止めるかは、100%自分の自由になります。

 つまり、腹を立てて自分も「バカ」と言い返すか、無視するか、あるいは、自分にも悪いところがあったのではないかと反省し、その人との接し方をよきものへと変えていくのも自分の自由なのです。

  すなわち、相手の一言によって天国と地獄も自分の自由に作ることができるということです。だからこそ、人間は死んでからどのような世界に行くかは初めから予定されている訳ではなく、現在の自分の生き方によって自由に行き先を決めることができるというのはこのことを言っているのです。

 以上、自分の自由になることと自由にならないことについて述べましたが、そんなことは、とうに知っているという人も多いと思います。でも、「分かっちゃいるけどやめられない」ではないですが、むだと知っていながら鏡の相手に対して何とかしようと徒労を続けている人の多いのも事実ではないでしょうか。(竹内)

   ●平成15年05月07日 怒りのメカニズム

 

 先回は、自分の自由になることと自由にならないことについてお話しをしました。そこで、一般的な傾向として、自分の自由にならないことがあれば、それが怒りへと転化していくことがあるように思います。

 特に動物ではその傾向が強く、自分の思い通りにならないとすぐに吠えたり攻撃したりします。人間はそれほどでなくても、やはり動物的な傾向が残っているらしく、そのような場合になることもあるようです。

 そこで今回は、その怒りのメカニズム、つまり、人はどうして怒るのかについて考えてみたいと思います。

 人が怒るときは、自分の思いどおりにならないとき、自分の自由にならないとき、あるいは自分が害を受けたときなどがあげられますが、その原因についてもう少し掘り下げて考えてみますと、ある共通の原因があるように思われます。

 それは、(1)真理を知らないから(2)相手が理解できないから(3)自分は偉いのだというように自我が強いからなどがあげられますが、ここでそれぞれについて考えてみたいと思います。

(1)真理を知らないから

 真理(あの世も含めた世界の仕組みや人間の心の法則など)は、人を自由にするものであるとよく言われていますが、まったくそのとおりで真理を知らないと何につけても不自由となります。そして、それが原因で怒りとなっていくことが多くあります。よく子供が親におねだりをして、それが叶わないと泣いたり怒ったりすることがありますが、ものの道理が分からないとこのようになるものです。

 特に真理の中でも、「この宇宙は原因と結果の連鎖によって運営されており、決して偶然ということはないのだ」という真理は、私たちをかなり自由にしてくれるものです。

 例えば、自分が今貧乏だとします。その原因は、自分の育ってきた家に財産がなかったからということもあるかも知れませんが、世の中にはむしろ貧しい家庭で育った人のほうが、現在、財をなしている人が多いと聞いています。つまり、今自分が貧乏なのは自分に原因があるのだと言うことが分かれば、もう腹が立たなくなります。親が悪い、政治が悪い、不況が悪いというように他人の責任にすることはできなくなるからなのです。

 そのように原因と結果の連鎖を見抜く力がなければものの道理が理解できず訳が分からなくなるので、つい腹が立ってしまうことになると言えるのではないでしょうか。

 また、真理を知らないということにも関連しますが教養がないときも怒りに結びついていく傾向があります。ついかっとなる人を見ていますと、教養があまりないことも事実です。(これを読んでついかっとなったらすでにその傾向にあります)

 ですから、悟った人は決して怒らないということは昔も今も変わらない普遍の真理として語られているのです。

 ただし、この怒りについても私憤と公憤があり、以上に述べてきた怒りは私憤のことであって、ものの道理が理解できれば私憤はなくなっていくものです。

 しかしながら、公憤とは多くの人々の幸せを願ってのものなので、明らかに主語が異なってきます。それはもはや自分に主語がないのです。ですから、悪を見て見ぬふりをすることは、かえって自己保存となるがゆえに、主語が人々にあるならば世のために立ち上がって戦おうという態度になることは容易に想像がつくことでもあります。

(2)相手が理解できないから

 人間関係でよくトラブル起こす原因は、この相手が理解できないことにあると言っていいでしょう。相手の言うことや相手の行動に腹を立てる理由は、なぜ彼あるいは彼女がこういうことを言うのか、なぜこういうことをするのかが分からないから腹が立ってしまうようです。

 しかしながら、こういうときに腹を立てなくするいい方法があります。それは、相手になりきってその問題を考えてみることなのです。

 例えば、彼が今日こういうことを言ったとします。それが自分にとってはとても受け入れ難い腹の立つことだったとします。そのときに、売り言葉に買い言葉ですぐさま言い返すのではなく、考えてみることです。

 それは、相手の性格、嗜好、くせや傾向、生い立ち、そして彼の家族の人たちのことを知って、相手になりきってその問題を考えてみることです。そうすると、なるほど、彼がこのように考えるのも仕方がないことだなということが分かってくるのです。

 従って、不思議なことに腹が立たなくなってくるのです。いや、逆にもっと相手のためにできることはないだろうかという思いやり(愛と言ってもいいでしょう)の心さえも出てきます。

 そのとき、怒りや相手を害する心というものは、相手に対する理解不足から発生するのだということが分かってきます。ですから、常にできるだけ相手を理解することに努めることが大事になってくるのです。

(3)自我が強いから

 自我が強い人も怒りやすいものです。自分のプライドが傷付けられたり、自分がないがしろにされますと激しく怒ります。おそらく「自分が自分が」という思いが強いからだと思います。

 これは誰にもあるものではありますが、この「自分が自分が」という自我の思いが強くなりますと、常に他人から認められていないと落ち着かず、いらいらとして結局は自分の首を絞めることにもなります。

 そのために二千六百年前にお釈迦様は「無我」(*1)を説かれましたが、最近までその真意が正確に伝わって来なかったは残念なことです。

 でも、やっとその真意(*1)が明らかにされた今、その教えに基づいて自我を抑えることが可能となったのです。詳しいことは参考文献を読んでいただくとして、この無我の教えがまた人間を自由にする大きな力を持っていると言えるでしょう。

 以上、怒りのメカニズムについて述べましたが、これは心をコントロールできる第一関門とも言えます。この関門を通過せずして無我も愛もないということです。先ほど、悟った人は決して怒らないと述べましたが、逆に怒ったら何十年の修行も一瞬にして無になるとも言われています。

 つまり、真理に目覚め、真理を勉強し反省を重ねて何十年間心の修行をしてきたとしても、怒りによって一瞬にして、それらは全て振り出しに戻るのです。戻るのは1年ぐらいでもいいのではないかと思うのですが、すごろくの振り出しに戻るように全て振り出しに戻るという厳しさがあります。

 このように心の修行には厳しいところがありますが、それでも、それを乗り越えて悟りを手にすればそれだけ喜びも大きく、昔から悟りという山を目指して登る人が絶えないという理由でもあるように思います。

 それでは、今回はこれぐらいにして、また次回にこの続きをお話しさせていただきます。(竹内)

*1『仏陀の証明』『真説・八正道』(幸福の科学出版)

   ●平成15年05月17日 欲をコントロールすること

 

 先回のコラムでは、怒りのメカニズムについてお話しをしました。そこでよく怒る人を観察していますと、いくつかの共通の原因があることを述べましたが、結局一言でいうならば「欲が深い」と言えるかと思います。

 つまり、欲が深いということは釈尊が説いた「無我」の心境とは逆の状態で、言わば動物的な「自我」から脱出できないでいる状態と言っていいでしょう。

 人間にはさまざまな欲があると言われていますが、『大悟の法』(幸福の科学出版)の第1章では人間には五欲があると述べられています。つまり、「財欲」「色欲」「食欲」「名聞欲」「睡眠欲」の五欲があると述べられています。

 それらを眺めていますと、なるほどその通りだなとつくづく思われる次第です。それらの詳しい解説は、書籍を読んでいただくとして、ここではどうしたらそれらに振り回されずに生きることができるかについて考えてみたいと思います。

 この欲というものは煩悩と似ているところがあって、刈っても刈っても次から次へと湧き出してくるところがあり、昔から修行者を悩ましてきたところのやっかいな問題でもあります。

 ですから、仏教では昔から『四弘誓願(しぐせいがん)』(*1)という教えがあって、その中に「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)」という言葉があり、「煩悩は尽きることはないけれども、これを断じよう」と誓い願われてきたのではないかと思います。

 しかしながら、欲も煩悩も完全に無くしてしまうことは不可能であって、完全に無くすということはつまり死になさいということを意味します。世の中の修行者の中には、欲や煩悩は完全に無くしてしまわないといけないのだと誤解している人もいるようですが、実は、それらをよく刈り取ってコントロールしていくことが大切であったのです。

 実は、私も当初は欲というものは完全に断っていかなければならないのだと誤解していたうちの一人でありました。しかしながら、欲は完全に断ち切っていくものではなくよくコントロールしていくべきものであるということを知って大いに納得し、また安らぎを覚えたものでした。

 つまり、先ほど述べたところの五欲は誰にでもあるものですが、自分がそれらの欲の奴隷になってはいけないということが正しい解釈なのです。すなわち、欲を馬にたとえるならば、自分が馬の主人になるのであって、馬が主人になるのではないということなのです。

 そういう意味では、人間は常に肉体という馬にまたがって人生を歩んでいる存在であるかと思います。

 通常、乗馬では馬にまたがった主人が、馬をよくコントロールして自分の行きたいところや、障害物を飛び越えたりしますが、もし、馬が自分勝手に行きたいところに行ったり、障害物を飛び越えることを拒否したならば、それはもう馬にまたがり人生という旅を続けることは無理だということになります。

 では、どういう状態が欲に振り回されている状態で、どういう状態が欲をよくコントロールできている状態と言えるのでしょうか。それをどのように判別していけばよいのでしょうか、それをここで考えてみたいと思います。

 これは、私の経験で恐縮ですが、私はこのように考えています。

(1)怒ったら終わり

 自分の思いどおりにならないときや、自分の気に入らないことなどがあったときに、つい「かっ」ときて怒ってしまったならば、それはすでに馬の手綱を離したことと同じで、もはや欲に降参してしまったことを意味しています。

 ですから、昔から仏典にもありますように修行者に対しては、特に怒りを強く戒められてきたのではないかと思います。

 先回のコラムにも書きましたが、怒るということは動物的になるということであって、人間の本来の姿からどんどんと離れていくことになるからなのです。

(2)本来の自分が望んでいることなのかを点検してみる

 朝は誰でも眠いもので、万人に睡眠欲があるようにいつまでも寝られたらいいなと思うものです。そのとき、肉体の自分はずっと寝つづけたいと思うわけですが、職場で働いている自分を考えてみるならば、もし出社に遅れたり、会社を休んだりしたならば同僚に迷惑がかかりますし、さらに、お客様にも迷惑がかかることになります。

 そのとき、たとえ肉体の自分が眠りたいと思っていたとしても、本来の自分はこれではいけないと思うはずです。ですから、肉体自分と本来の自分(肉体がない自分)の思いを比べてみて、本来の自分が望んでいる方向へと行動しているならば、これは欲をコントロールできている状態といえます。

 逆に、肉体の自分の思う方向へといつも行動しているならば、肉体の奴隷になってしまっている状態であると言えます。このように、本来の自分が望んでいる方向へといつも向かっているかどうかを点検することによって、欲のコントロールができているか否かを調べることができます。

(3)その望みが自分の実力にあったものかを点検してみる

 欲と言ってもその全てが間違っている訳ではありません。ある人が会社で大きな業績をあげて、さらに大きなスケールで仕事をするために高いポスト、例えば部長や事業部長、重役のポストを望んだときに、これは欲だから悪いことだと一概に言えないところがあります。

 しかしながら、逆に何の業績も上げられず、能力も無い社員が同じ望みを抱いたならばそれは欲になってしまうでしょう。

 つまり、欲と言えるかどうかはその人の実力にあっているかどうかで決まるものであると言えるのではないかと思います。ですから、自分の望みが理にかなっているかどうかは、自分の実力相応であるかどうかをよく自己評価して考えてみることが必要だと思います。

(4)無欲の大欲

 無欲の大欲という言葉があります。一見矛盾する表現のようにも聞こえますが、この言葉の意味は、「私においては、無欲であるが、社会のため、人々のためには大きな欲がある」という意味です。

 世直しをする人、あるいは世の中の多くの人々のためになることに大きな願望を持っていたとしても、その欲は欲であってもいい欲であると言えます。

 このように欲と言っても、ただ単に否定されるものではなく、その目的とするところやその資質によって善悪が決まってくるものであるともいえます。

 以上、今回は欲のコントロールについて考えてみました。人間は肉体を持つ限り生きていかなければなりませんので、欲と無関係にいることは不可能であると言えます。しかしながら、またそれをうまくコントロールすることができるようにも創られています。であるならば、その方法を学びそれを人生に上手に活かしていくことこそ、人生の達人と言えるのではないでしょうか。(竹内)

(*1)『沈黙の仏陀』第2章(幸福の科学出版)

平成15年05月27日 欲と感謝について

 

 前回のコラムにおいては、欲のコントロールについて述べさせていただきました。その中で、誰にでも欲があるものでありますが、それを完全に取り除いてしまうためには死ぬしかないことになりますが、それを過ぎないようによくコントロールしていくことこそが大切であることを述べさせていただきました。

 そこで、今回は、欲と感謝の心について考えてみたいと思います。

 欲というものは、まだ足りないと思っているからこそ、もっと欲しいという欲の心が生まれてくるところがあります。つまり、そこにはまだ足りないという思いがありますが、その足りない思いがどんどんと大きくなり、明けても暮れてもそのことばかりを考えるようになりますと、これがもう執着となるのです。

 昔から仏教の言葉として「少欲知足」という言葉があります。この言葉の意味は足ることを知って欲を抑えましょうととることができますが、すなわち足ることを知るということと欲の関係が深いことを示しています。

 つまり、足ることを知らなければもっと欲しいという思いになり、それが欲となってどんどんと大きくなるという関係にあることが分るのです。では、逆に足ることを知ったならばどのようになるのでしょうか。

 足ることを知ったときは、自分には十分に与えられているという思いとなりますので、足りないと思う場合とは逆にありがたいという思いになるはずです。

 本来自分には与えられないものが与えられたとなれば、これはありがたいことで、今度は感謝の心へとつながっていきます。以前のコラムで「むしろ与えられていることを発見しよう」ということを述べさせていただきましたが、人間の欲しいという思いには限りがないと言われています。

 お釈迦様のお言葉で、「人間の欲には際限がなく、あのヒマラヤの山全体を金にして与えたとしても、必ずもう一つ下さいと言うものだ」というお言葉が残っているようです。つまり、前回のコラムで人間には「五欲」があると述べましたが、その思いには際限がないということなのです。

 つまり、お金をいくら持っていたとしてもそれに満足することなく、もっとお金が欲しくなるということを意味しています。例えば、宝くじで3億円当たったらいいなと思っている人が、3億円当たったとしてもまたさらにお金を欲しがるようになるということなのです。

 そして、この欲望は決して止まることなく、どこまでもどこまでもエスカレートしていくことを意味しています。先ほどのヒマラヤの山を金にして与えても、今度は地球を金にしてくれ、そして月も太陽までも金にしてくれとなるものなのです。

 ですから、どこかでこの欲望の連鎖を断ち切らなければ、どこまでも続いていくということなのです。実は、欲にはこういう恐ろしいところがあります。

 しかしながら、この際限のない欲がまた同時に人間の文明文化を発展させてきた原動力となったことも事実です。もっと早く目的地に着きたいという欲望が、汽車を創り、自動車を創り、飛行機やロケットを創りました。また、いつでも誰とでも話しをしたいという欲望が便利な携帯電話までを創りました。

 ですから、この欲と言われるものもその目的とするところが何であるかによってその善悪が変わってきますので、十分にその内容を点検することが大切だということができます。

 では足ることを知るということは感謝につながると述べましたが、その感謝の思いはその後どのようになるのでしょうか。

 人間は、本当に感謝した場合にはお返しがしたくなるものです。例えば、もし自分が病気になって、ある人から寝ずの看病を毎日してもらったならば、その人に対して必ず言葉でのお礼はもちろんのこととして、何かお返しをしたくなるものです。

 その人に喜ばれることを必ずしようとするはずです。実は、これが報恩と呼ばれる行為なのです。ですから、本当の感謝は必ず報恩という行為を伴うという法則があるのです。

 自分はいつも感謝していますと言う方がいたとするならば、その感謝の思いは必ず報恩という行為に現れているはずです。もし、いつも感謝していますと言っておきながら報恩という行為を伴っていないとするならば、その感謝は偽者であると言うことができるでしょう。

 それと同じように足りないという思いは必ず行為に現れてきます。それは報恩とはまったく逆の奪う行為として現れてきます。その奪う行為は金品を奪うということに限らず、人の愛を奪う行為としても現れてきます。

 例えば、人の賞賛を得ようとしたり、自分が大事にされようとしたり、あるいは人に対する嫉妬の心という形などで現れてきます。これらの奪う思いは、奪う愛と呼ばれ人間にとって最も難しい乗り越えるべき壁であり、また同時に最も重要な魂の修行課題でもあります。

 では、足りないという思いから出る欲を制し、足ることを知って感謝し、そして報恩へと思いを導くためにはどうすればいいのでしょうか。少し私の体験も含めて述べさせていただきたいと思います。

(1)何もない状態から現在の自分を見つめ直してみる

 以前のコラムで、「私はときどき感謝の心を忘れかけたときに、宇宙空間に一人で放り出された自分を瞑想をすることがあります」と書いたことがあります。宇宙空間にただ一人、宇宙服をつけてふわふわと浮かんでいると自分を想定しますと、いかに大地があることがありがたいことか、いかに空気や水があることがありがたいことかを改めて感じられるようになるのです。

 つまり、私は今生まれたばかりの何も持っていない自分、あるいは宇宙に放り出された自分を想定してみて、そこから現在の自分を見つめ直すことを時々行っています。そうすると、何と多くのものが与えられているかを発見することができるのです。

 今着ている服も、家族も、家も、職場も、あるいは自然の緑も、空気も太陽もありがたく感じられるようになってきます。これを本格的に発見する方法が、あの有名な「八正道」なのです。

(2)報恩の行為を形から入る

 心の法則から言えば、本来は与えられていることを発見し、そこで足ることを知り、そこから感謝し報恩の行為へと移っていくものではありますが、一番最後の報恩の行為にダイレクトに形から入ることも可能です。

 すなわち、本当に感謝して初めて自然な報恩の行為へと移っていく訳ですが、あえて報恩の行為を続けることによってそれが習慣化し、思いに影響を与えていくことも可能であるということなのです。

 例えが適切でないかも知れませんが、歯磨きの嫌いな子供が、毎日好きではないが歯磨きを続けているうちに、自然と歯磨きが出来るようになったという話しに似ているでしょうか。

 本来は、納得して行動するものなのですが、形からでも行為ができてそれが心にまで働きかけてくれるということは人間を作られた仏神の慈悲でしょうか。何とありがたいことでしょう。

 以上、今回は欲と感謝について述べさせていただきましたが、ここで感じられることは、それぞれの心の状態というものは他と無関係にばらばらに独立して存在しているのではないということです。すなわち、それぞれの心が密接に関連し合って存在していることの発見です。

 そして、これらの心の状態の関連を知ることによって、さらに心の統御が可能となるということの発見は、私にとって何か貴重な宝物を発見したような感じを受けた次第です。(竹内)

Rsun