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Rsun,株式会社アールサン,データベース中心主義,七の日コラム,データ駆動型データベース,R3D(京都東山清水寺横の風景)
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●平成14年12月7日 すでに起こった未来 |
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七の日コラムを書かせていただいてから、早や3ヶ月が経ちました。その間、お読みいただいている方々の数も段々と増え、読後のメールも頂くようになりました。この場をお借りいたしまして、改めて読者の皆様に感謝申し上げます。 さて、今年も残すところ3週間ばかりとなりました。今年は一体どういう年であったかということは、これから新聞などで「今年の十大ニュース」として発表されることと思いますが、やはり、経済的な苦しみの年であったということには間違いはないと思います。 そこで、来年はどうなるのか。私たちの未来はどうなるのか、ということが人々の大きな関心となっていくと思いますが、なかなか未来が分からないというのが通常の人間の姿ではないかと思います。それでも未来を知りたくなるもので、昨今、新版の「タイムマシン」という映画が上映されたことも、そのことの証明であると思います。 では、未来をどう見るのか、どう知るのか。実は、『常勝の法』(*1)にも書かれていますし、またP.F.ドラッカーも言っています(*2)が、未来は突然にやってくるものではなく、現在ただ今に未来の種子があるということが言われています。すなわち、現在に起こっている変化に対し目を凝らして見てみると、そこに必ず未来のヒントなるものがあるはずであるとの指摘がなされているのです。 なるほどなと思いました。この宇宙が、原因と結果の連鎖で成り立つと言う「縁起の法」によって統べられているとするならば、原因もなく、ある日突然に物事が現れるはずはありません。必ずその原因となるものがあるはずであります。 では、現在起こっている変化とは何なのか。それは前回のコラムで、現代は産業革命以来の大変革が起きていると言いましたが、もしかしたら、もっともっと大きな変革が起きているのかも知れません。 つまり、今までの人類の文明は、衣食住から始まって「もの」の豊かさを求める方向で発展繁栄してきた訳ですが、それらがある程度満たされた今、新たな価値観を求める方向へと、ポイントの切り替えが起きているのではないかと思います。 なぜなら、今日本人の個人の金融資産は、すでに1400兆を超え、個人においては貯金を多すぎるぐらいに持っています。エコノミストや経済評論家は、このお金が使われないのが不況の原因だとも言っています。確かにそれもあるでしょう。もし、その1%でも使われれば、景気が良くなることは確実でしょう。 なぜ貯蓄が消費に回らないのでしょうか。その理由として、将来に対する種々の不安から、人々が自衛のために貯蓄に走っているのだとも言っています。確かにそれもあると思います。 しかしながら、一番大きな原因は、使うべきところがないというのが真の原因ではないかと強く思われるのです。人々は、自分がその価値を認めてそれが欲しいとなれば、たとえ高額であっても消費をするものです。例えば、ソニーの「アイボ」などもその良い例だと思います。 つまり、今起こっている変化とは、かつて人類が経験したことのない域に入っていると言って過言ではないかと思います。つまり、農業革命、産業革命、情報革命を経て、現在それとは次元の違う変革が始まっているのではないかと思われるのです。 はっきりと言わせていただくならば、これは人類の歴史が始まって以来の大変革で、目に見える「もの」に対する価値観から、目に見えない「もの」への価値観の変革と言ってもいいのではないかと思います。例えば、それは、 ・友情 と言われるものを大切にする価値観への転換ではないかと思います。 なぜ、人々は携帯電話を手放せないのでしょうか。なぜ、メル友が大切なのでしょうか。なぜ、語らいの場としてのコーヒ・ショップに人々が集まるのでしょうか。なぜ、新人は給料は安くてもやりがいのある職場に行くのでしょうか。なぜ、震災のボランティアに人々が集まるのでしょうか。なぜ、山奥の静かな温泉に人々は行くのでしょうか。なぜ、エコというものが売れるのでしょうか。なぜ、人々は家族の絆をさらに強めようとしているのでしょうか。なぜ、スポーツセンターがオープンと同時に会員登録が満員になるのでしょうか・・・。 今、日本の産業自体が大きな曲がり角に来ています。それは、従来の延長線上での改善ではもう立ち行かないところまで来ているのです。もはや、リストラ、カイゼン、コストダウンも限界に近づきつつあります。さらに、ものづくりという意味では、高度で新規性の高いものを除けば、中国を始めとするアジアの国とコスト競争ができなくなっています。 すなわち、新しい価値観にもとづく新しい産業を興さなくては、これからの日本の繁栄はないということではないかと思います。そういう意味では、この見えない新たな価値観が分からない経営者や社員は、新しい時代に適応できなくなる危険性すらあるのではないかと思います。そして、この変革が世界のどこよりも真っ先に日本で起こっているということも、何か偶然でない気もします。 つまり、もともと日本は、先進国の中でもそういう精神的なる価値を重んじていた国であります。その国が物質的繁栄を手にし、それらを経て、今、弁証法的に言えば統合する「正・反・合」の「合」の段階にあるのではないかと思います。 ですから、今起こっている経済的な苦しみは、新しい社会の産みの苦しみであり、また同時に誕生という喜びを必ずもたらすものであると信じています。私は、そういう大変革を体験できる日本に生まれたということをありがたく思い、すべてに対して感謝の思いでいっぱいです。(竹内) (*1)『常勝の法』P.238(幸福の科学出版) (*2)『すでに起こった未来』(ダイアモンド社) |
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●平成14年12月17日 田中耕一さんの一句 |
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ノーベル化学賞を受賞された島津製作所の田中耕一さんは、連日のハードスケジュールの中で、忙しいストックホルムの毎日を送られ15日に日本に帰国されました。そのスケジュールの中にはパーティも多くあったそうですが、連日の正装での参加で、田中さんが一句を詠まれました。 「燕尾服 通常、燕尾服を着たいと思っても着られない人がほとんどで、それも何度も着られるというのは、その人にとっては喜びの極であるはずなのですが、田中さんはこう詠まれたのです。 私はこの句を聞き、なぜ田中さんがノーベル賞を受けられたのかが、また納得いくようになったのです。 田中さんのノーベル賞を受けられた後での言動を拝見していますと、非常に庶民的で飾り気がなく、また平凡なサラリーマンのようにお見受けいたしました。またそこが、日本の国民からこぞって共感を得られたところでもあったのではないかと思います。 しかしながら、「無欲の大欲」と言いましょうか、通常の人なら名声やお金が欲しくてたまらないところですが、逆に田中さんは、それよりも早く帰って研究をしたいと言うお方なのです。 つまり、非常に平凡ではあるがその中に非凡さがある。通常の人ならばこちらの方に走るだろうなというところが田中さんにはない。そういう平凡の中での非凡さがノーベル賞の受賞という最高の栄誉につながったのではないかと思います。やはりノーベル賞を受賞される方は、受賞されるだけのものがあるということの発見でした。 またさらに、この一句は、現在の日本の状況を表すのにぴったりの俳句ではないかとも思いました。日本は、戦後50年奇跡的な経済発展を遂げ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで持ち上げられ、色々なところで賞賛を多く受けるまでに至りました。 もしかしたら、そのとき私たちはずっと燕尾服を着続けていたのかも知れません。成功に酔いしれて、燕尾服を着慣れてしまったのかも知れません。 だからこそ、この俳句の「終わりかな」に予言されているように、現在、未曾有の経済的混迷の中で苦しんでいるとも言えるのではないでしょうか。 大切なことは、どのように成功したとしても、それで出来上がってしまわないということではないかと思います。たとえ燕尾服を一時的に着たとしても、またもとの作業服の姿にさっと戻れる謙虚さが大切であるということを教えていただいたように思います。 ダンテの言葉に、「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があります。イバラの道と、きれいに舗装された道が示されたならば、ほとんどの人は舗装された道を選ぶでしょう。しかし、ダンテは、それが地獄への道だと言っているのです。 今、日本の産業は曲がり角にあります。戦後の高度経済成長期での考え方が全く通用しない曲がり角にあると言っていいと思います。少子高齢化の時代を迎えて、今まで通りに若い社員が入社して来なくなったのです。 従来では、日本の会社は年功序列で、年齢が来たらそれなりのポストが与えられました。例えば、部長になれば、実務はすべて部下がやってくれますので、極端な話しをすればハンコだけをついていれば良かったわけです。つまり、楽ができたのです。 ところが、若い人が入社して来ないのですから部下がいない。部下がいないけれども年齢がきたので、慣例に従ってそれなりのポストが与えられる。そうすると、高いポストを与えられた人は、今までのそのポストの人がそうであったように実務をしなくてもいいのだと錯覚してしまい実務をしなくなる。そうすると、会社の生産性が落ちてしまい業績が低迷する。このように今まで通りのことをしている会社がもう立ち行かなくなっているのです。 今や、ポストの付与による思い違いを無くすために、肩書きやポストを廃止する企業が増えつつあるのはこの理由からでもあります。 すなわち、これからは年功序列という慣例に従うのではなく、その人にとって会社に一番貢献できる仕事が何であるかを見極めること。そして、一番貢献できる仕事をその人にしてもらい、またその成果に従って給与が支払られるという形になっていくことが望ましいと考えられます。 実は、これが一番自然な姿であり、本来の「あるべき姿」であるため無理がなく、また、末永く続いていくものではないかと思います。 楽して給料をもらうということは、しょせんバブルであり無理がそこにあります。そして、自然の摂理としては本来のあるべき姿に戻ろうとする力が働きますので、時間の経過とともに価値のないものは価値が無くなり、価値あるものはその価値に見合った形で報酬が与えられていくものです。これは法則です。 しかしながら、これからの時代は楽はできないとしても、命の続く限りやりがいのある仕事を続けることができますし、また、何よりも地獄への道を歩まなくてもいい訳ですから、考え方によってはいい時代がやってくるとも言えるのではないかと思います。 田中さんは、研究という仕事ができなくなるので昇進を辞退されました。しかしながら、これほど会社の貢献された方もないのではないかと思います。ですから、会社にとってもどちらが得になるのかが段々と見えてきたのではないかと思います。 私は、田中さんの受賞が、これからのサラリーマンやOLを始めとする人の生き方の変わり目になっていくのではないかという予感がして、このコラムを書かせていただきました。(竹内) |
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●平成14年12月27日 一年の終わりに一年間の反省を |
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本年も残すところあと数日となりました。皆様も家の大掃除や、新年を迎えるための準備などでお忙しいことと思います。 年末の掃除は、一年間にたまったホコリやゴミをきれいに取り除き、心機一転して新年を迎えたいという意味があると思いますが、そういう意味では一年という区切りは、今までのことを清算して、また一からやり直せるというありがたい機会でもあると言えるでしょう。 そこで大切なことは、家でも一年の終わりに大掃除をするわけですから、人間の私たちも、お風呂に入って垢を取ることはもちろんのこととして、心の垢を落とすことも必要ではないかと思います。 しかしながら、心の垢を落とす大切さについては、さほど言及されていないのが現状でもあります。実は、心の垢を落とすことを「反省」と言って、昔から精神性のある教えや、心の教えには必ず入っているものでした。 ところが、この反省というものは、そのやり方を教わらないとなかなか出来ないもので、私の勝手な見方ですが、昔から十二月が「師走」と呼ばれているのは、もしかしたらそれを指導する人が忙しくなると言う意味もあったのかも知れませんね(?)。 それでは、さっそく簡単な反省の方法について述べてみたいと思います。 (1)まず体調を整える 反省は、体の調子が悪いと出来ませんので、もし疲れていたり風邪をひいていたならば、まず休養をとって体調を整えることが大事です。また、大きな悩みがないことも重要です。大きな悩みがあれば、そちらのほうに意識が引っ張られるので、過去を振り返ってみることが難しくなります。 (2)外界との情報を遮断する テレビの音が聞こえていたり、家の人たちの会話が聞こえているところでの反省もまた難しいものです。ですから、気が散るような情報が入ってくるところは避けたほうがいいでしょう。静かなところ、あるいは静かな部屋を選んでそこで行うようにして下さい。 (3)一年を区切る 一年を反省すると言っても、一年間をまるまる振り返るのは難しいものです。ですから、ある程度期間を区切って振り返ったほうがやり易くなります。例えば、3ケ月ごとに一年を4つに区切るとか、あるいは、もっと細かく振り返りたいならば、1ケ月ごと12個に区切るのもいいでしょう。 (4)区切った単位に自分を思い出す 区切りが終わったならば、今度はその区切りの単位に自分を振り返って観ていきます。例えば、一年を4つに区切ったならば、今年の1月から3月に、自分が何をしていたのかを思い出します。ところが、もうずいぶんと昔のことなので、そのときの自分をなかなか思い出せないものです。 ですから思い出すコツは、例えば、その時に一番世の中で話題となっていたことや流行していた歌などを思い出し、それに関連させて自分を思い出すようにすると割と出来るものです。例えば、昔はやった流行歌を聞くと、そのときの自分がありありと思い出されることがあるのです。日記やその時の写真があればそれを使うのもいいでしょう。 (5)そのときの自分を眺める 自分を思い出したならば、自分が第三者になったつもりで自分を観ていきます。具体的に言いますと、その時の自分を写したビデオがあったとして、そのビデオを再生して観るようなものだと思っていただければいいでしょう。自分の姿というものは意外と本人には分からないのですが、第三者から見ればよく分かるものであるということを利用するのです。 (6)自分の言動から「思い」と「行ない」の善し悪しを診る その時の自分を眺めることができたならば、その時に自分がしゃべった言葉や自分がとった行動から自分の「思い」や「行ない」がどうであったかを診ていきます。もし、その判断が分かりにくいならば、自分がしゃべった言葉や、とった行動が相手にとってどう感じられたかを、相手の立場に立って考えてみるのもいいでしょう。そうすれば、必ず善かったか悪かったかが分かるものです。 (7)もし、悪しきものがあれば詫び、そして、二度と繰り返さないことを決意する それらを診ていった結果において、もし、悪しきものがあったならば、まず心の中で相手に詫びることです。「ごめんなさい」と詫びることです。そして、以後そのような悪いことはもうするまいと決意することです。もちろん、相手の人に今後も会えるなら、直接に詫びることはさらにいいことでしょう。 ひとつの区切りについての反省が終わったら、次の区切りについても(4)〜(7)を繰り返し、一年の全てを終えます。 以上、簡単な一年の反省の方法について述べてみましたが、もちろんベテランの方には、「八正道」(*1)と言われる本格的な心の修行方法があります。掃除の方法にも粗大ゴミの掃除、紙くずなどのゴミの掃除、ホコリの掃除、磨き上げなどの段階があるように、心の掃除の方法にも段階があると思っていただければいいと思います。 ここで述べた反省の方法は、粗大ゴミと紙くずなどのゴミの掃除に当たるかも知れませんが、それでも掃除するのとしないのとでは全く部屋の様子が違ってきます。 そして、さらに時間があれば、昨年とくらべて自分は前進したかどうかも診ていきます。前進したのか後退したのか、これを診ていきます。これを観ていくことによって、自分の進歩の度合いが分かるのです。 大切なことは、人間ですから私たちは誤りを犯すこともありますが、そのときにそれを誤りであったとして自分で認めて、もう二度と繰り返さないという教訓にしていくことこそが大切ではないかと思います。そうすることによって、そのj教訓が智慧となり、人間は人格的にも成長していくのではないかと思います。 今回は、一年の締めくくりに際し、少しでも皆様の参考となればと思い反省をテーマに書かせていただきました。 来年が皆様にとってよい年となりますことを祈念して、今回のコラムを閉じさせていただきます。ありがとうございました。(竹内) (*1)『仏陀の証明』(幸福の科学出版)など |
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●平成15年01月07日 新しい年の門出に |
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新年あけましておめでとうございます。 いよいよ新しい年が始まりました。やはり新春というのは気持ちがいいものですね。昨年のことは昨年のこととして反省し、それを持ち越さずに新しく門出ができるからです。 では、自分にとって今年はどのような年になるのでしょうか。私たちは、これを是非とも知りたくなるものです。 そこで占いではありませんが、今年は自分にとってどのような年になるのかを二つの法則に基づいて考えてみたいと思います。 (1)縁起の法から 縁起とは、「すべてのものには原因と結果がある。その原因と結果の連鎖によって世界が展開している」(*1)という考え方です。つまり、ものごとが起こるには必ずその原因があるという考え方で、この考え方のもとでは「偶然」ということはありえなくなります。 そう言ったならば反論される方も多いと思います。例えば、交通事故も偶然ではないと言えるのかと言われることと思います。しかし、交通事故であっても偶然ではないのです。それには必ず原因があります。例えば、そのときは疲れていて注意が散漫であったとか、車が整備不良であったとか、路面が凍結していたとか、何らかの原因が必ずあります。 ですから、ものごとの原因を注意深く見ていくならば、その後どういうことが起きるかがある程度予測がつくことになります。それは、あたかもビリヤードの玉のように、ある方向に玉が進むと、どの玉に当たってどの壁ではね返り、どのように進むかがが分かるようなものであると言えます。 でも賢い人ならこの法則を結構使っておられるのではないかと思います。例えば、飲み過ぎたら二日酔いになるので、ほどほどにしようとか、金融会社でたくさんお金を借り過ぎると後でその返済が苦しくなるので、借りるのは止めておこう、などと言うように原因と結果のつながりをよく見抜いて生きておられる方も多くおられます。 そこで、本論に戻りますが、では自分の将来をどのように予測するかですが、この法則によって予測するならば、現在あるいは過去になしたことを見ていけば、それが将来にどのように展開するかある程度判定がつきます。 つまり、いいことをすればいい結果がやってきますし、悪いことをしたり、怠けたら必ず悪い結果がやってきます。ただそれだけのことです。ですから、現在あるいは過去にいいことをし、また勤勉に努力をしているならば、必ずいい未来が開けて来るということです。この法則から是非ともご自分の未来を観ていただきたいと思います。 (2)「念いは必ず実現する」という法則から 次の法則は、「念いは必ず実現する」という法則です。よく正月になりますと、「一年の計は元旦にあり」と言われますが、その通りです。この意味は、物事を始めるには何ごとも計画が重要だという意味ですが、これからどうしていくのかと言う計画がなければ何事も成し遂げられることはないということを意味しています。 このことわざは、よく心の法則を見抜いているとも言えます。つまり、自分は今年こうなるのだ、あるいはこうなりたいと言うビジョンが無ければ、それが成就されることはないということです。つまり、成功した自分の理想像を思い描くことが大切だということなのです(*2)。 厳密に言うならば、この法則も前項の1で述べた縁起の法に基づいているとも言えます。なぜならば、ビジョンをありありと思い描くという原因行為によって、その通りの結果が現れると言うことでもあるからです。 ですから、今年の自分を占いたいならば、その答えとしては前項に加えて、自分がどのように自分を思い描いているかによって決まってくるということであります(*3)。すなわち、自分の将来は、自分が思っている内容によって決まってくるということです。 以上、二つの法則の観点から今年の自分を占ってみたわけですが、結論から言えば、自分の将来、さらには自分の運命は自分で変えられるということを意味しています。つまり、これから未来を変えるべく、いいことをいていき、自分の理想像をビジョンとして思い描くならば、必ずそのようになっていくものであるということです。 本年もいい年となりますように、善いことをして、自分の理想像を思い描かれることをお祈りいたします。では、本年もよろしくお願い申し上げます。(竹内) (*1)『心の挑戦』P.26(幸福の科学出版) (*2)『繁栄の法』P.172(同) (*3)『奇跡の法』P.56(同) |
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●平成15年01月17日 心の傷の癒し方 |
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もう早いもので、この17日で阪神大震災からちょうどまる8年が経ちました。人間というものは時間が経つにつれて段々と記憶が薄れてくるものですが、実際に震災に遭遇された方々にとっては、まだまだ心の傷が癒されておられないのではないかとお察し致します。 長い人生ですから色々なことがあります。嬉しいこと苦しいことが色々とあります。恐らく一度も苦しみや悲しみを味わったことがないという方はおられないと思います。 そこで、今回は誰しも経験するこの心の傷の癒し方について、劣等感という問題を中心にして私の体験も含めて述べてみたいと思います。 (1)実績を積む 過去に大失敗した経験や、他人との比較で自分の劣っているところなどで悩んだ経験は誰でも持っておられるのではないかと思います。例えば、受験の失敗、失恋、仕事上での失敗などや、自分の体に関する悩みなどがあります。 これらは確実に劣等感となります。私も劣等感で悩みました。そこで、色々な本を探しましたがなかなかその答えに出会うことができなかったのですが、最後にたどり着いたのが幸福の科学の本でした。 劣等感というものは、いい意味で作用した場合にはこれがバネとなって「やる気」を起こさせるものとなりますが、ほとんどの場合は、自分を卑下する方向に向かっていくものとなります。また、この劣等感は嫉妬心と親戚関係にあると言われるぐらい関連が強く、劣等感は自尊心と互いのベクトルが合わさって嫉妬心となるようです。 ですから、他人がねたましく思える方は、自分に劣等感があるかどうかの点検をすることをお勧め致します。 では、この劣等感はどのようにしたら克服できるのでしょうか。 まず第一に、私の経験では実績を積むことが有効ではないかと思います。現在も、もちろん実績を積んでいる途上にありますが、その途上においていくつかの劣等感が「成仏」していったことも事実です。 つまり、劣等感はそれを取り除くというよりも、実績というプラスを生み出していき、それで劣等感というマイナスを打ち消していくということによって無くなっていくものであるという関係があるようです。 ですから、この劣等感を取り除こうといたずらにあがくよりも、自分のプラスのところをより伸ばしていき、実績を積んでいくことが有効だということを分らせていただきました。 (2)人間は同時には二つのことを考えられない 劣等感で悩んでいるということは、結局自分のことしか考えていないのではないかと思います。実は、心には法則があって、同時には二つのことを考えられないように創られています。 ですから、劣等感の克服のためには、この法則を使って別のことを考えるようにすればいいというありがたい事実があるのです。 私は、この法則を結構重宝しています。例えば、考えても仕方のないことや、すでに済んでしまったことを以前では結構くよくよと考えていたものでした。そのとき、これではいけないということで、何回か考えないように努力したのですが、結局うまくいかないことが多くありました。つまり、またすぐに元の考えに戻ってしまうのです。 そこで、この法則に巡り合った訳ですが、この法則を知ってからは、昔の楽しかったことや、嬉しかったことを意図的に考えるようにしたのです。要は、別の考えに切り替えるために、別の考えを常に持っておかなければいけなかったのです。 結局、劣等感で悩むと言うことは自分のことしか考えていないと言うことですから、他人のためになることを考えるようにすればいいこととなります。 例えば、仕事においては、どうすれば顧客が喜んでくれるだろうか、どうすれば皆が幸福になるだろうかを常に考えるようにすればいいと言うことになります。この部分を圧倒的に多くしていけばいいのです。 私は、この実践を試みたところ、不思議なことにそれまでの劣等感が小さくなっていき、段々とその影が薄れてくることを経験しました。要は、自分は「ひま」だったのだなとも思った次第です。 確かに忙しくしていたならば、それ以外のことなどは考えられませんので、忙しいというのが劣等感克服のいい解決策かも知れません。 以上、私の拙い経験も含めて述べさせていただきましたが、心の傷も肉体の傷と同様に法則に基づいて科学的に癒していくことができることを学ばさせていただきました。複雑な現代社会の中で、悩んでいる人が一人でも減ることを願って書かせていただきました。(竹内)
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●平成15年1月27日 四季のあるありがたさ |
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連日厳しい寒さが続いていますがいかがお過ごしでしょうか。今年の冬は暖冬だという気象庁の予想に反して、各地でかなりの寒さが続いています。インフルエンザも流行しているそうですので充分な休養を取る事と、栄養をつけてスキの無い生活を送っていただきたいと思います。 さて、このような厳しい冬ですが、よく考えますと昨年の夏はこれまた酷暑で、そのときは早く涼しくなって欲しいと連日思っていた記憶があります。 人間というものは、暑かったならば早く涼しくなって欲しいと思い、寒ければ逆に早く暖かくなって欲しいと思うもので、いつも自分勝手だなあと私自身思っています。 でも、冬は寒く夏は暑いものですが、もし、冬も夏も無かったならばどうでしょうか。いつも春か秋ならば過ごすのには楽かも知れませんが、何かぬるま湯につかっているような感じで、何の期待感もまた感動も起きてはこないのではないでしょうか。 そこに自然の計らいといいましょうか、仏神の人間に対する深遠なる計らいを感じざるを得ないところがあるのではないかと思います。 冬は確かに寒いですが、寒さが厳しければ厳しいほど春を迎える喜びが大きくなるものです。また、夏も同じように暑さが厳しい分だけ秋の訪れは嬉しいものです。 そのように四季というものはその中に厳しさ、あるいは苦しみと言ってもいいかと思いますがそれらを含んでいますが、またそれと同時に喜びというものを合わせ持つような配慮がなされているように思えるのです。 たとえば、普段は自然に対して無関心だった人が、道端のタンポポを見つけて感動をするようなことが起こるのです。いつもなら見過ごすようなタンポポでも感動が湧いてくるようなことが起きるのです。そして、人間はその発見を通して大いなる存在を感じ取っていくのではないでしょうか。 そのように物事というものは、同じところに居ると分からないところがありますが、その対極を経験することによって初めてその意味が分かるような仕掛けがあるのではないかと思います。 つまり、白色がどれだけ白いかは、灰色や黒色に接して初めてその白さが分かります。いや、逆にもっと輝く白さに出会って初めて、意外と白くなかったということも経験することがあるでしょう。要は、物事を知るためには、対極にあるものを知って初めてそのものの本当の意味を知ることができるのではないでしょうか。 例えば、海外旅行をすることによって日本という国がどういう国かを客観的に知ることができますし、都会に住んでいる人が、自然豊かなところに住むことによって、都会の良いところや悪いところを改めて知ることができることに似ているでしょう。 健康もそうです。健康のときはそれが当たり前となって何のありがたさも感じない訳ですが、いったん病気となって初めて、いかに健康がありがたいかが分かるものです。 そのように人間というのは、現在の立場と対極にある場所に置かれて初めてその意味が分かったり、今持っているものを無くして初めてそのありがたさが分かるという性質を持っているように思えるのです。 ですからある意味で、もし苦しみがあったとしても、その苦しみは苦しみのためにあるのではなく、苦しみでない状態をより深く感じ取り、それに対して感謝をするためにその存在が許されているとも言えるのではないでしょうか。 冬は寒くて苦しいですが、やがて春を迎えその春のありがたさを深く感じ取るためにあると考えれば、これまたありがたいと思えるようになっていくのではないでしょうか。 そう考えますと、四季といものをお創りになった仏神の深い慈悲を感じざるを得なくなってくるとも言えるのではないかと思います。 私はときどき感謝の心を忘れかけたときに、宇宙空間に一人で放り出された自分を瞑想をすることがあります。宇宙空間にただ一人、宇宙服をつけてふわふわと浮かんでいると自分を想定するのです。そのとき、いかに大地があることがありがたいか、いかに空気があることがありがたいか、いかに水や緑があることがありがたいか、改めて感じられるようになれるのです。 以上、四季があることの意味を私なりに考えさせていただきましたが、皆様も一緒その意味を考えていただければありがたいです。(竹内) |
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