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    ●平成15年02月07日 ストレスの克服法

 

 月刊ザ・リバティーの3月号に「自殺者を減らそう」という内容の特集がありました。私は、その中で年間の自殺者が3万人もいることを知ってびっくりしました。いつも年末近くになると話題となる交通事故で亡くなった方の数ですら1万人を割っているのに、逆に自殺者は増えているのです。

 その原因のひとつとして「仕事がうまくいかない」ということがあげられていました。やはり仕事上での苦しみは、大きなストレスとなって本人にのしかかっているのだなと改めて認識を致しました。そこで、今回はこのストレスにどのように対応していくかということについて、私なりの少ない体験も含めて述べてみたいと思います。

 もともと人間は永く自然の中で暮らしていた訳で、原始生活においては男性の仕事と言えば獲物を獲ってきたり、作物を刈り取ったりするだけのものでした。一方、女性の仕事はそれらを料理し、家族に食べてもらうことが主な仕事でした。

 ところが、現代社会においては、男性は不況の中でリストラの恐怖にさらされながら、会社から与えられた目標を達成しなければならないという圧力がありますし、奥さんにとっても子育ての圧力があります。またさらに子供にとっても受験の圧力があり、現代社会においてストレスのない人はいないと言っていいぐらいとなっています。

 では、このようなストレスの多い現代社会なので元の原始社会に戻れるかと言えばそうでもありません。もうこれはこのストレスを乗り越えていくしかないというのが答えではないでしょうか。

 そうすると、現代社会においてはこのストレスをどのように乗り越えていくかということが、現代に必要とされる智慧の一つとなってきているようにも思います。しかし、この智慧は、なかなか学校では教えてもらえないので自分で開発するしかないところにつらいところがあります。

 ではどうしていけば、このストレスを乗り越えていくことができるのでしょうか。

 まず第一にあげられることは、先回のコラムに書いた内容にヒントがあるように思えるのですが、いつまでも寒い冬や暑い夏が続くことはないということから希望を見出すことではないかと思います。

 ありがたいことに、この世の中は、「諸行無常」という法則のもとにあります。つまり全てのものは移ろい行くものであるという法則があり、そのままでの同じ状態がずっと続くことはないという法則があるのです。

 すなわち、「苦しいことはずっと続くものではない。必ずこの苦しみはやがて終わりを迎えるのだ」という希望を持つことが大切ではないかと思います。そういう希望があるからこそ、つらい時でも頑張れるのです。もう少し我慢をすれば必ず暖かくなるのだという希望があるからこそ、寒い冬でも耐えることができるのです。

 ですから、たとえどんなにつらい時にあっても、これがこのまま続くことはない、努力すれば必ずよくなっていくのだという希望がストレスに耐える力となっていくのではないかと思います。

 自然界では6ケ月経てば冬が夏になる訳ですから、現在の苦しみも6ケ月もすれば、まったく変わった展開になると言うこともできるのではないでしょうか。

 第二に、ストレスとは反対のものを持つことです。つまり、自分の一番好きなこと、あるいは自分が一番リラックスできることを持つことです。

 音楽を聞くことが好きなら、それを聞くことでもいいですし、旅行が好きなら旅行をすることもいいでしょう。ですから、自分がストレスを忘れて没頭できる何かを持つことが必要です。これは言葉を変えれば趣味を持つということになるかも知れません。

 仕事しか持っていない人は、仕事で大きな問題が発生しますと全てがだめになってしまいます。そうならないために、仕事とは別の井戸を掘ることが大切なのです。

 最近、大人のOFF(仕事を離れた時間の過ごし方)関係の本がよく売れているようです。そういう本からヒントを得るのもよいことでしょう。

 そして第三に、奉仕活動をしてみるのもいいと思います。ストレスで参っている時というものは、自分のことしか考えていないものです。そのアンチテーゼとして、他人のため、世の中のためになることへと念いの逆転を行うのです。

 具体的には、何かのボランティア活動に参加するのもいいですし、地域の奉仕活動に参加するのもいいでしょう。例えば、休みの日に皆と一緒に町内の掃除に参加すると確実に自分が変わります。そうしますと、何かすがすがしい気分になれるものです。

 なぜなら、人間は人のお役に立ったということで喜びを感じられるように創られているからです。ストレスで苦しい時には、このような逆転の発想が意外と効果があることを私自身が経験した次第です。

 以上、ストレスの克服法について述べましたが、先のことを考えると苦しみが大きくなるところがありますので、何しろ一日を一生だと思って一日ずつを生きていけば苦しみは次第に小さくなっていくものと思います。

 余談ですが、むかし中学生のときに学校のマラソンで苦しくなった時、次の電柱まで走ろうと思ってそれを繰り返していたら最後まで完走してしまったという記憶があります。人生も、もしかしたらこのようなものかも知れませんね。(竹内)

   平成15年02月17日 人間は死んでも死なない

 

 先回のコラムで、自殺が最近増えてきているということを述べた直後に、若い男女3人がインターネットでの自殺の呼びかけで自殺をしたというショッキングなニュースが飛び込んできました。

 その自殺の原因が誰にでもあるような悩みであったので、二度びっくりしてしまいました。働くところが見つからないとか、退職してしまってぶらぶらしているとか、誰にでもあるごく普通の悩みごとが原因だったようです。

 では、なぜ彼らは自殺に走ったのでしょうか。その原因について、テレビや新聞などで色々と述べられていましたが、それらを聞いたり読んだりして痛切に感じたことは、この世で生き抜くのがあまりにも下手なのではないかということがまず第一にあげられますが、死に対する知識不足からくるところもあるのではないかと強く感じました。

 死後の世界は有るのか無いのか。死んだらどうなるのか。誰もあの世から帰ってきた人がいないので、これはなかなか分からないところとなっています。

 しかしながら、死を宣告されて10分とか30分後に蘇えったといういわゆる「臨死体験(Near Deth Experience)」の報告は世界中でけっこう多いのです。

 かつて、NHKで臨死体験の放送の特集がありましたが、欧米ではすでに臨死体験が学問として成立しており、体験談を集めて熱心に研究しているグループがあるようです。ところが、日本ではまだまだ学問レベルには至っていないというのが現状です。

 また、お寺のお坊さんであってもあの世はないのだ、死んだら終わりだという人が多いこともその原因になっているように思います。

 しかしながら、あの世はあるのです。過去の聖人の誰でもが言っていたようにあの世はあり、死んでも人間は魂として死ぬことなく、あの世に生き続けることになっているのです。

 このことは、物質的に証明されるこの世の世界とは、さらに上段階の次元の世界の話しとなるため、なかなか証明ができないところとなっています。しかし、やがてこの世的な研究者の間でも認められる時代がそう遠くない将来にやって来るのではないかと思ってます。

 さて、話をまた元に戻し、自殺の話しになりますが、おそらく彼らは死んだら何もかも終わりで、この世の人生の苦しみは全て消えてなくなってしまうのだと思っていたのではないかと思います。

 確かに、現在が非常に苦しく、死んだらこの苦しみは消えてしまうのだと思っていたならば、死んで楽になりたいと思ったのではないかと思えますし、またさらに、自分の体だからどう扱っても自分の自由(勝手)ではないかとも思っていたのではないかと思います。

 では、本当に自分の体は自分のものなのでしょうか。

 オギャーと赤ちゃんで生まれて、段々と成長してきたはずですが、そのとき、自分の背の高さや、自分の顔立ちなどを自分でコントロールできたでしょうか。心臓を自分で動かしたでしょうか。消化器を自分で意識して働かしたでしょうか。また、寝ているときに意識して呼吸していましたでしょうか。

 これらは全て、自分の意識に関係なく動いていたはずです。それも見えない力で・・・。それが生かされていることの何よりの証拠であり、また同時に自分の体は、自分のものでありながら自分のものではないという証明でもあります。

 仏教には、よく「無常観」があると言われています。そして、この「無常」は「苦」なりとも言われています。その意味は、ずっとそのままの状態で居たいのだけれども、すべてのものは変化を余儀なくされているので、それが苦しみとなっていますよということを意味しています。

 例えば、人間は必ず年をとりますが、老いは苦しいものです。また、ずっと健康であった人が急に病気になって病気の苦しみを味わうこともあります。

 しかしながら、老いを自由にコントロールできないという苦しみ、体をずっと健康に保つこともできないという苦しみは、また同時に「無我」でもあるのです。つまり、そういう苦しみがあるけれども、自分でコントロールできないが故に、また自分のものではないという「無我」の状態でもあると言うことなのです。

 自分のものではないということは、すなわち大いなる存在によって生かされていることを意味します。またさらに、大いなる存在の一部であるということも意味するのです。

 つまり、自殺とは生かされている自分、大いなる存在の一部としての自分を傷つけることに他ならないことであり、それは罪でもあるのです。

 他人を傷つけたり殺したりしますと、そこで逮捕されます。しかし、自分を傷つけても逮捕されることはありません。しかしながら、これは他人を傷つけることと同じくらいに罪なことになるのです。同様に自殺は殺人罪と同じぐらいの罪であると言えるのです。

 その証拠に、自殺者は一部の例外を除いてそのほとんどが天国ではない世界へと往くことになります(*1)。自殺者の自分としては楽な世界に行けると思っていたのに、その期待に反してさらに苦しい世界へと往くことになるのです。

 そして、恐ろしいことに死んでから初めてその真実を知るに至るのです(すぐには分からず、さまよっているだけの人も多いが(*1))。でも、それではもう遅いのです。

 これは、もう生前に知るしかありません。生前に正しい死後の世界観を持つしかないと言えるでしょう。そのためにも、死後の世界観を正しく教える教育が、これから最も重要な課題になるのではないかと痛感する次第です。(竹内)

(*1)『大悟の法』P.78〜(幸福の科学出版)

   ●平成15年02月27日 経済的な問題解決で悩みの8割が消える

 

 人間には誰しも悩みがあるものです。もし悩みが無いという人がいたとするならば、悩みが無いこと自体が悩みだと言えるかも知れません。それほどに人間は悩みと密接に日々暮らしていると言ってもいいでしょう。

 しかしながら、その悩みも決してバカにできないところがあります。たとえ、それがささいな悩みであったとして、本人にとっては自殺へと追い込むほどのものとなることがあるからです。

 悩みには色々な種類があります。身体上の悩み、恋愛の悩み、仕事上の悩み、人間関係の悩み、子育ての悩み、勉強の悩み、そして、経済的な悩み等々。それこそ数えたらきりがありません。

 しかしながら、これらの悩みを診てみますと、経済的な問題が解決されれば、そのお陰で解決されるものも少なくないことに気付かされます。これは大きな発見だと思います。そこで、そのことを少し検証してみたいと思います。

(1)まず身体上の悩みです。

 これは、健康上の悩みから、体型、容姿の悩みまであることでしょう。まず健康上の悩みですが、多くは病気の悩みと言ってもいいでしょう。

 今もし病気で苦しんでいるとしたならばどうでしょうか。この病気を治すのも、ここに多くのお金があれば設備の整った病院に入院することもできますし、また高価な薬を使って治療することも可能となります。つまり、経済的な力は、病気の治療に効果があることを意味しています。

 また、体型や容姿についても、整形外科技術の進歩のお陰でお金をかければかなりのところまで出来るようなりました。長年そのことで悩んでいた人も手術をすることによって、人生が大きく変わり、それがきっかけで幸せになった方も多くおられます。

(2)恋愛の悩み

 恋愛の悩みは、そのまま結婚の悩みと言ってもいいでしょう。自分の想う人と結婚したいと思っても、これも先立つものがなければ、現実的にはなかなか叶わないところがあります。

 金色夜叉の物語ではありませんが、どうしても結婚とは現実的な問題とからみあっているものです。これもどこまで言えるか分かりませんが、男性なら収入というものがその運命を左右すると言うところが現実としてあります。

(3)仕事上の悩み

 仕事ができない、うまくはかどらない。これも経済的な力によって解決できるところがあります。

 たとえば、スキルを身に付けるために効果の高い研修に参加すれば、それだけスキルが身に付きますし、また高性能で高機能なパソコンを使えば鬼に金棒(天使にケリューケイオン)となります。

 さらに、快適な足となってくれる高性能な車があれば、仕事は以前の何倍ものスピードで進んでいくことでしょう。これも経済的な力のお陰によるところが大です。

(4)人間関係の悩み

 嫁姑問題もまだ人間関係の悩みの上位にありますが、もし、両者が住む家に二世代住宅としてのお互いのプライバシーを守れるような空間が確保されているとするならば、解決できる問題も多くあるでしょう。

 また、職場の人間関係の問題解決のために、海外旅行などのリッチな企画を実施して親睦を深めるのもいいですし、上司なら、お金があれば部下にご馳走をしてあげるのも人間関係を改善することになるかも知れません。

(5)子育ての悩み

 子育ての悩みは、まさしく経済的な問題と直結していると言ってもいいでしょう。もし、お金があれば人に頼んで子供を預けることもできますし、高度な教育を受けさせることもできるのです。それが出来ないで悩んでいる人も多いのではないでしょうか。

(6)勉強の悩み

 この悩みも子育ての悩みと同じく、お金をかければ解決されるものも多いです。有名私立大学の入学のために、まずそれ専門の塾に通わせるとか、優秀な学生を家庭教師につけることもできるでしょう。

 以上、経済的な問題が解決されることによって、様々な悩みも同時に解決されることを考えてみました。

 ここで言いたかったことは、決して拝金主義になりなさいと言っている訳ではなく、お金という価値を充分に活用することによって、そのお陰で形を変えた悩みの解決が出来ることを考えてみた次第です。

 そう考えますと、現在四苦八苦していることが、経済の力によっていとも簡単に解決されるということもあり得るということを意味しているのではないかと思います。それは、例えば大きな石を素手で動かそうとして四苦八苦しているところに、「てこ」を使うことによってそれを簡単に動かせることに似ているでしょうか。

 つまり、今悩んでいることを、この例えの「てこ」のように簡単に動かせるようなことはないかということを考えることです。そして、今検証しましたように、けっこう経済の力というものが、この「てこ」に当たることが多いということを発見できたのではないでしょうか。

 現在、世の中は不況にあり、それが原因で自殺する人も多いと聞いています。ならば、この経済の面から、例えば政府が大減税を実施するなどして、国民の悩みが解決されるように努力する方法もあるのではないかと強く思う次第です。(竹内)

   ●平成15年03月07日 思いをコントロールすること

 

 2月17日のコラムで、若い男女がインターネットサイトで呼びかけて自殺を図ったという事件でびっくりしたということを述べましたが、こういう事件は連鎖するのでしょうか。この3月5日にまた若い男女3人が同様な方法で自殺して亡くなりました。

 本当に自殺がどれほど悪なのか、またそれが霊的にどういう意味を持っているかということを今こそ真剣に各自が知るときが来たように思います。 

 自殺の原因について色々と述べて参りましたが、結局行きつくところは自分の思いをどのようにコントロール出来るかにかかっているのではないかと思いました。

 つまり、自分の悩みやストレスを跳ねのけることが出来ずに思い詰めてしまって、その結論が自殺であったのではないでしょうか。その自殺の結論が出るまで本人たちには色々なことが心の中を通り過ぎて行ったことと思います。あるときは自殺を思い止まり、あるときはまたそこに思いが行ってしまったことと思います。

 もし、そのとき自殺をしようという思いを別の方向へと向けたり、あるいは自殺よりももっと関心のあることが出てくれば、当然自殺へと到ることはなかったのではないかと思われて残念でなりません。

 でも、人間の心というものは暴れ馬のように自分でコントロールができにくいとことがあり、自分ではどうにもならないとことがあります。しかしながら、乗馬でも練習すれば上手に馬を乗りこなすことができるように、心もしっかりと訓練すればコントロールできるものなのです。そのために大昔から心の修行の重要性が偉大な方々によって説かれてきたのです。

 心をコントロールする方法には過去から色々とあり、専門的なことはそちらにお任せするとして、ここでは、私の拙い経験から学んだことを中心に述べさせていただきたいと思います。

(1)「執着」となっていないかを調べる

 仏教では、「執着を去れ」とよく言います。でも何が執着なのか。また自分に執着があるのか分からないところがあるのではないかと思います。そこで、執着とは何かについて少し考えてみたいと思います。

 実は、執着とは無意識のままに常にそのことに思いが行ってしまうことを言います。つまり、ふと気が付くとそのことを考えていたというその内容が執着だと言う事ができます。

 例えば、車が欲しいとします。朝起きて、歯を磨いている時にそれを欲しい欲しいと思っていた。通勤で歩いているときにそのことを考えていた。机に向かって仕事をしているときに、ふと気がつくとそのことを考えていた。などがよくありますが、これはもう立派な執着と言えるでしょう。

 また別の例として、人間関係でしこりを創った人がいるとします。その人のことを嫌だ嫌だと思っていて、ご飯を作っているときも、掃除をしているときも、ずっとそのことを考え続けていたならば執着になっています。

 私も気が付いたらそれをずっと考え続けていたというようなことが結構ありました。でも、始めはそれが執着だとはわからなかったのです。ですから、まず自分に執着がないかどうかを見極めることが大事なことになります。そこから執着を取り除く努力が始まるのです。

(2)心をコントロールする

【まず第一に自分の思うことを自分の意志で変えてみる】

 では、いつも心が向いてしまうことをどのように取り除いいけばいいのでしょうか。このための本格的な修行方法としては、有名な「四諦・八正道」があります。しかしここでは、その前段としての方法について述べてみたいと思います。

 それは、自分の意志で自分の思うことを変えてみるという方法です。例えば、自分がまずお花畑を思い浮かべていたとします。その情景から、今度は自分の意志で夏の海水浴をしているところを思い出し、そのことを思い続けます。

 そして、その次にその思いを切り替えて、今度はデパートで買い物をしているところを思い出し、そのことを思い続けてみます。

 つまり、この訓練は自分の意志で自分の思うことをコントロールしていくという訓練です。心というものは、自分のものでありながら、自分の意志とは関係なくとりとめもないことを勝手に思うものです。そのとき自分は心の奴隷になっていると言っていいでしょう。

 そのような状態から、自分が心の主(あるじ)になっていくことを意味しています。つまり、言葉を変えれば自分で自分の思うことを創り出せるようになるということでもあります。

【次に、別に思うことを待つ】

 執着になっているときというものは、案外ヒマで話題性がそれしかないことが少なくありません。前項で思いを変えてみると述べましたが、そもそも変えるべき話題がなければ変えることもできません。

 例えば、病気がちな人が常に病気のことばかりを思っているので、他のことを考えましょうと言っても他に思うことが何もなければ仕方がありません。従ってそのようなときは、まず話題創りから始めないといけなくなります。

 例えば、何か趣味を持つとか、あるいはペットを飼ってペットの世話をしてあげるなどと、他に関心を向けられるところを創ることが必要となります。

 仕事が非常に忙しくてそれが執着になる人もおられますが、逆にヒマ過ぎてささいなことが執着になることもありますので、適当な忙しさがあるということもありがたいことだと言えると思います。

(3)悪い思考回路を断ち切る

 思いというものは不思議なもので、過去に何らかのつらい出来事を経験しますと、以後同じ場面に遭遇すると恐怖心を抱いたり、異常に拒否反応が出てしまったり、どうしてもあることが出来なくなってしまうようなことがあります。

 これらも、一種の執着のたぐいであると言えなくもありません。ではこれらの除き方をどうするかということですが、私の経験から言わせていただくならば、これらを除こうとしてもどうしても出来ないのであれば、別のプラスものを多く持ってくるという方法もあるのではないかと思います。

 つまり、あることに対する恐怖心があり、その場面になるとすぐにその恐怖心が出てくるような場合は、心の思考回路がショートして間違った計算をしてしまっているようなものなので、条件反射的にそのような思いが出てしまうことがあります。

 例えば、閉所恐怖症の人や、飛行機に乗れない人や、対人恐怖症の人などの方々は、そのような回路が出来ているとも言えるでしょう。すなわち、自分ではこう考えてはいけないと思っても、暴れ馬となった心が勝手にそちらのほうに走ってしまうのです。 

 つまり、これらの思いは自分の意志とは関係なく、頭の中でその回路がつながっている限りその思いは出てきます。そこで、その回路を断ち切ることが必要となります。

 そのためには、前項で述べさせて頂いたように、思いを変えたり、別に思うことを持ってそれで心の中を満たしていくことが有効に働くのではないかと思いますが、さらに、それらはトラウマになっていると考えられますので、小さな成功体験を積み重ねて自信をつけていくことも必要ではないかと思います。

 すなわち、成功体験を積むことによって自信が出てきて「私はこんなことで悩んでいたのですよ。バカでしょう。」と、他人に笑い話のように話せるようになれば、その回路は消えていったと言えるのではないかと思います。

 私の経験で述べさせていただくならば、その悪い回路が消えるまでには非常に時間のかかることではありますが、しかしながら必ず克服できるものであることを体験させていただきました。ですから、なかなかその回路を消せなかったとしても簡単にあきらめないで成功体験を積み重ねていくことが大切かと思います。

 以上、思いをコントロールすることについて述べました。心というものは、言うことを聞かないときは何を持ってしてもびくともしないぐらいやっかいなものではありますが、しかしながら、そのことは同時に心がいかに大きな力を持っているかの証でもありましょう。

 すなわち、もし、自分の意志によって心を動かせるようになれば、その大きな力を手にすることになるわけで、それは自分が巨人になることを意味するのではないかと思った次第です。(竹内)

   平成15年03月17日 努力は必ず報われる

 

 先回は、思いのコントロールについて述べました。そこで、人間の心というものは、自分のものでありながらなかなか自分の言うことを聞いてくれないものであるということを述べました。

 そして、気になることや嫌なことがあれば常にそこに心が止まり、他のことに気が回らなくなることがよくありますが、それが執着なのですよと述べさせていただきました。

 気になることは色々あるもので、昔の故事には鼻が見えるのが気になり、それをそぎ落とした人の物語があるぐらいです。他の人には何でもないことが、当人にとっては重大な問題になることも少なくありません。

 先回は、この暴れ馬のような心をどのようにコントロールするかという一方法について述べさせていただいた訳ですが、今回は、その場合の心構えについて少し述べてみたいと思います。

 それは、「努力は必ず報われる」ということを深く納得することなのです。

 人間は、あることを為すに当りやってもやっても成就しない場合、途中であきらめて投げ出してしまう傾向にあります。この先どれだけ努力すれば達成できるのかが分からないと、つい不安に思うものです。

 しかしながら、学校で理科を勉強した人であるならば、この宇宙に「エネルギー不滅の法則」があることをご存知だと思います。

 すなわち、与えられたエネルギーは消えてしまうことなく、形が変わったとしても必ずそのエネルギーは必ず引き継がれていくというものです。

 例えば、お茶を入れたいのでやかんに水を入れてお湯を沸かすとします。そこで、ガスに火をつけて水が沸騰するまで待ちます。

 そのとき、1分間火をつけたならその分だけお湯の温度は上がります。2分間火をつけたなら同じくその分だけお湯の温度が上がります。ガスの火のエネルギーは、ロスがあったとしても、その分だけ水の温度を確実に上昇させます。これがごく簡単に説明したエネルギー不滅の法則でもあります。

 つまり、為したこと(エネルギー)は、他に何も影響を与えずに消え去るということはないと言うことなのです。たとえエネルギーが目に見えなくても必ず対象に対して働きかけを行っているということなのです。

 先ほどのお湯を沸かす例で言うならば、もし、お湯が沸騰するまでに10分が必要だとした場合に、5分間火をつけたが沸騰しないのであきらめて火を止めてしまいますでしょうか。8分ではどうでしょうか。9分ではどうでしょうか。やはり、完全に沸騰するまで待つでしょう。

 でも、世の中の人たちを見てみますと、時間がくれば必ず沸騰するにもかかわらず途中でだめだと言ってあきらめてしまう人も多いのが事実です。

 人生もこのお湯に似ているところがあります。やかんの温度は外から見ても分かりません。なので、ガスの火がどれだけお湯の温度を上げたかが分からず途中で火を止めるようなことをしている人が多いのです。せっかくある程度まで来ているのにもったいない話しです。

 水は、100度Cにならないと沸騰しません。50度Cで半分沸騰してくれればまだ待つこともできますが、非情にも100度Cでなければ沸騰しないのです。

 「働けど働けど我が暮らし楽にならず」と思っておられる方もあるかと思いますが、エネルギー不滅の法則で言わせていただくならば、その勤勉に働いたという努力は無になっている訳はありません。

 それをまず知ることです。やがて時間がくれば水は必ず沸騰すると思えるように、自分の努力も継続をし続ければ必ず成就すると思うことが大切だと思います。

 しかし、残念ながら努力をしたにもかかわらず予期した成功が得られないこともあると思います。たとえそのときであっても、エネルギー不滅の法則によってそのエネルギーはなくなることはありません。必ず形を変えてでもその結果が得られるようになっています。

 例えば、ある有名大学を目指して受験勉強を一生懸命にしたが不合格になってしまったとします。しかしながら、その大学には入れなかったとしても勉強したというエネルギーは残っています。そして、その勉強したというエネルギーは、社会に出てから変わった形で役に立つということも十分ありうることなのです。

 この世界が原因と結果の連鎖によって統御されているならば、為した行為に対して何も結果が現れないということはあり得ないのです。

 これが科学なのです。その法則を理解しているならば、努力は必ず報いられるということを理解することはとてもたやすいことと言えるでしょう。

 ですから、私たちの人生と言う「やかん」にどれだけの水が入って入っているかが分からないので、いつ沸騰(努力が実る)するかが分からないものですが、途中で火を止めるぐらい馬鹿らしいことはないということがお分かり頂けたのではないかと思います。

 最後に、霊的な観点から述べさせていただくならば、私たちはあの世からこの地上に生まれてきますが、その際にこの地上での人生の計画書を生まれ変わりのお役所ともいうべきところに提出します。そのときにそのお役所ではその人が耐えられないような試練が計画されていた場合には、必ず生まれ変わりは許可されないと言われています。

 このことは非常に重要なことを意味しています。つまり、本人が自殺をしなくてはならないぐらいにつらい人生計画書は当初から認められることはないということと、すでに自分がここに生まれているということは、自分の人生は自分の努力によって十分に生き抜くことができる人生であることを意味しているのです。

 にもかかわらず、途中であきらめて自殺をしてしまうということは、これは大きなルール違反であるともいえるでしょう。

 以上、努力は必ず報われると題して述べさせていただきましたが、この真理がいかに科学的なものであるかということを感じられたのではないかと思います。実を言いますと、私もそう感じたうちの一人だからです。(竹内)

   ●平成15年03月27日 一日を一生と思って生きる

 

 先回のコラムを書いたあとに、とうとう米英同盟軍とイラクの戦いが始まってしまいました。近代の戦争はハイテク戦争で、しかも情報戦の様相を呈しているが故に、過去に経験しなかった難しい複雑さがあるように思えます。

 悩みも個人レベルから始まって、家庭、会社、社会、そして国家まであり、その争いのレベルは、最後には国家のレベルまで行ってしまうのだなと改めて痛感した次第です。

 さて、今回も個人の悩みを解決するための方法について述べていきたいと思います。題して「一日を一生と思って生きる」です。

 一般的に、大きな挫折を経験して生きる望みがなくなった人たちには、将来に対する希望を持てないという共通性があるように思われます。もし、彼らが将来に対して希望を持っていたならば、その後大きく落ち込むことはないようにすら思います。

 ですから、そういう人たちに将来に対する希望を持ってもらうことは大変有効であるように思われますが、私の体験から言わせていただくならば、そういう状態にあるときに将来に希望を持つことはかえって難しいところがあるのではないかと思います。

 しかしながら、ここで一つの救いがあるように思います。それは、時間のかかる将来は無理としても、今日の一日を上手に生きるということは出来るのではないかということです。

 つまり、将来と言っても実は一日一日の積み重ねではないかということなのです。その毎日の積み重ねによって将来が創られていくという事実があります。であるならば、将来のことを思い煩うよりも、本日一日を上手に生きるようにすれば必然的に、その積み重ねによっていい未来が開けてくるのではないかと言うことなのです。

 そこで、私流ですが毎日毎日を分断し、毎日の成果を確認して生きる方法について述べてみたいと思います。

(1)今日一日の目標を立てる

 まず、朝起きたならば、今日一日の目標を立ててみます。目標には、今日やるべきことや、あるいはどういう状態でいるかということも目標になるかと思います。例えば、今日はこの部屋の掃除をしてそのあとにここへ行って用事を済ませましょうとか、今日は一切子供を怒らないようにしましょうとか、サラリーマンやOLならば、今日はこれとこの仕事をしましょうということなどが考えられます。

 そして、それらを紙に箇条書きにして書き出してみます。まず第一にこれ、第二にこれ、というように書き出していきます。今日一日、自分ならこれができそうだという項目を書き出していきます。

 実は、私は分厚いノートにそれらを毎日書き出しています。当初は薄いノートでしたが、すぐにいっぱいとなって冊数が増えてしまったので、その後は厚いいノートに変えました。

 目標を書き出すときの注意点は、あまり欲張らないことが大切です。なぜなら、あまりにも多く項目を書き過ぎて、もし達成できなかったならば残念さが残るからです。かと言って、あまりに少ないのも問題ですので、少し背伸びすればできるぐらいの内容がいいと思います。

(2)次に、その項目を実践します

 次に書かれた内容を実行に移します。そのときは、ノートを見ながらひとつづつ消し込んでいくような形で実践していくことになります。そうすることによって今どの項目を実践しているのかということを知ることができるからです。

 よくあることですが、自分は今日一日何をしたのか分からないという方は、その日を始めるに当たって目標なしに一日を過ごされた方ではないかと思います。

 ですから、目標を立ててそれを意識して実行していく人には、必ず、いいも悪いも成果がもたらされることになります。具体的には、ある目標項目の実践が終わったら、その都度その項目を消すような形でノートに記入していく形になります。

 そのときに「出来た」という実感がひしひしと伝わってくるものです。その達成感を味わうことは大きな喜びとなるものです。その達成感を味わうことができるのも目標を立てたからこそと言えるでしょう。

 人間というものは不思議なもので、目標を立てるだけで一日の過ごし方が違ってきます。なぜなら、それを行おうという強い意思が働くからだと思います。

(3)そして、一日の終わりに振り返ってみます

 一日の終わりに、書いたノートをもう一度見直してみます。朝書かれた目標項目の中には、達成できたので消し込まれたものも、消込まれなかったものもあるはずです。その一つひとつを思い出し、再度その実践がどうであったかを思い返してみます。

 たとえうまく実践できた項目であっても、もう少しうまく出来ることもあったのではないかと思うことも大切だからです。

 もし、その中に実践できなかった項目があったならば、自分を責めるのでもなくまた落ち込むのでもなく、冷静にその原因をつきとめるとこが大事です。

 出来なかったと言うことは残念なことですが、もしかしたら自分の弱点や自分の欠点を発見するいい機会となるかも知れないからです。つまり、失敗したとしてもそれから教訓を見出していき、次への智慧としていく態度が必要だということです。

 この考え方のことを「常勝思考」(*1)を言いますが、そのように考えるとき失敗は単なる失敗ではなくて、智慧を得たという成功に転化していくありがたいものとなります。

 そうすることによって成功はもちろん成功となり、失敗はそこから教訓を得ることで成功へと転化し、これらが毎日の成功体験となって積み重なっていくことになります。

 このように一日を一生だと見立てて、その一日を充実させていき、それらが積み重さなっていくことによって明るい未来が創られていくのではないかと思います。

 これも屋根に積もった雪下ろしと同じで、雪を一度に全部降ろそうとしても降ろすことは出来ませんが、スコップ一かきの雪なら降ろせるということと同じだと思います。

 自分の一生と言う人生も大きい雪ですが、一日というスコップ一かきにしてしまえば、雪降ろしと同じでたやすく実践できるものになっていくのではないでしょうか。(竹内)

(*1)『常勝思考』幸福の科学出版