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Rsun,株式会社アールサン,データベース中心主義,七の日コラム,データ駆動型データベース,R3D(弊社のルーツ京都東山の風景【大文字山】)   
   
   
   

    ●平成14年9月7日 ホームページ開設

 

 会社を設立してからちょうど1年と半年、やっとホームページが開設できました。その間、情報収集作業、ならびに大きなシステム開発の方が先に仕事として入り、それらに重点を置いたために、実はホームページづくりどころではなかったと言うのが正直なところです。

 でも、そういう時間をかけたお陰で、どうすれば低コストで、しかも利用者にとって使い易いデータベースシステムを開発することができるのか、このノウハウをその後もさらに多く蓄積させて頂いたように思います。

 実はそれらを通して、世の中で常識だと言われていることが、かえって現実にそぐわないなど、何事も白紙で見ることの大切さを改めて確認させていただいた次第です。
 これからも、世の多くの人々に喜んで頂けるように頑張って参りたいと存じます。(竹内)

 

    ●平成14年9月11日 あの日からちょうど1年

 

 今日は、あのニューヨークでの同時多発テロからちょうど1年目の日でした。その間、この1年を振り返ってみますと、過去の5年、10年に相当するぐらいに色々なことがありました。アメリカのみならず、中東でのテロの続発、インド・パキスタン危機などが大きいことですが、実は経済的にも大きな1年でありました。

 世界的な企業の不祥事の続出、株価の暴落、南米の経済危機、そして国内でのデフレの継続です。でも、人間というのは、根拠がなくてもすぐ「そんなはずはない」と思ってしまうものですね。あまりにも過去のインフレの印象が強烈であったため、すぐまたインフレになるに違いないと思ってしまうものですね。

 でも、色々出されている統計の数字は、どれもこれも物価の値下がりや、雇用の厳しさを示すものばかりです。しかしながら、よくよく見てみるとそういう厳しい世の中ですが、そのような環境の中でも逆に過去最高の業績を出している企業もあるという事実に改めて考えさせられます。

 私にとっては、デフレは大きな川にのようにも見えます。つまり、インフレは、山の狭い川のようで全てが激流でした。ですから皆流れが速く元気でした。でもデフレになるとゆったりとした流れになります。岸辺近くの水は流れるどころか、淀んで腐ってしまうものもあります。しかしながら、皆がそうではありません。川の中央の水は、速く豪快に流れているのです。

 つまり、デフレのときは、市場(川)が成熟してそれなりの難しさはありますが、きちんと時代の流れ(流れの速いところ)を読めば、かえって狭い山の川よりも安定し、かつ速く流れていくことも可能だということではないかと思います。

 デフレすなわちこれは危機ではなく、逆にチャンスなんだと考えることも必要なのだということを教えられたように思います。やはりこれからは、物事の本当の姿を見抜いていく智慧の力が非常に重要になっていくのだということを改めて確認させていただいた次第です。(竹内)

 

    ●平成14年9月17日 仕事の優先順位が分かること

 

 9月も半ばを過ぎまして、ずいぶんと涼しくなりました。今年は(も)異常に暑かったので、むしろ、寒いぐらいを恋しく思った方もおられたのではないかと思います。

 さて、今日は仕事について少し述べてみたいと思います。会社の仕事をしている毎日の中で、上司からある仕事を指示されたあと、何日かしてから上司からその出来具合を問われたときに、「忙しいのでまだ出来ていません」と答えられた方もおられるのではないかと思います。実は、私もそう言った記憶があります。そうすると、そのとき上司は、「そうか忙しかったのでは仕方がないね」、と変に納得してくれたこともありました。

 でもよくよく考えてみますと何かがおかしいのです。本来ならば指示された仕事で忙しくしていないといけないのですが、そうでないとするならば、上司に対する答えとしては、「その仕事に重要性が感じられず、他の仕事を優先させていたので出来ませんでした」と答えるのが正確な答えとなるでしょう。

 もちろん、指示された仕事ばかりをやっていたが、自分の仕事能力の至らなさで出来なかったと言うこともあるでしょう。でも、多くは、言われた仕事の重要性が分からず、後回しにしてしまったと言うのが正直なところではないでしょうか。

 例え話が極端かもしれませんが、上司から「会社が火事だ」と言われたとき、自分は一生懸命に雑巾がけを続けていて、消防署への通報も、消火器による消火活動も「忙しくて出来ませんでした」、と言っているようなものだと思ったらいいのではないかと思います。

 要は、仕事というものは、顧客からのクレームに対応する急を要する仕事から、自分の机の引出しの中の整理まで、数えればきりがないほどあるものです。そして、常に人間はその中から重要な仕事を選んで、その順番に仕事をしています。ですから、その人が日ごろ何を重要に考えているかは、その仕事の順番を見れば分かるものです。

 では、仕事の正しい優先順位はどうしたら分かるのでしょうか。ここが重要になってきます。これが分かる人を「仕事のできる人」と言うわけですが、なかなか難しいところがあります。先ほどの火事の例だったら、何を優先させればいいかは子供にも分かりますが、会社の複雑な仕事ではそうはいきません。

 これを分かる力を認識力と言い、言葉で言うのは簡単ですが、この認識力をつけるということはなかなか難しいものです。

 では、どうすればこの認識力を身につけることができるのでしょうか、これについては次回からのコラムでお話ししたいと思います。(竹内)

 

    ●平成14年9月27日 仕事を立体的にとらえる

 

  先回は、仕事の優先順位が分かることについて述べました。そして、その中で、仕事の優先順位が分かる力を認識力とも言いました。

 さて、先回述べた仕事の優先順位ですが、実はそれが分かるということは言い換えれば個々の仕事の重要性が分かると言うことでもあります。つまり、当たり前のことですが個々の仕事の重要性が分かれば、何を先にしなければならないかが分かってくるということでもあります。ですから先回の火事の例でしたら、消火活動のほうが雑巾がけより重要だと分かっていれば、当然それをするようになるということです。

 では、仕事の重要性はどうしたら分かるのでしょうか。それが問題なのです。それは仕事のやり方の根本のところに戻ることになりますが、「仕事の中心概念をつかむ」(*1)ということに関係があります。仕事の中心概念をつかむと言っても少し難しいので、別の言葉で言い換えますと、まず「この会社の事業の目的は何か」「この会社の使命とは何か」をつかみます。そして、それをつかんだならば、次に「自分のいる部署の位置づけや役割は何なのか」をつかみます。そして最後に、自分自身に対して「自分に与えられた仕事とはどのようなものか」をつかむことになります。

 これが分からなければ努力逆転、つまり自分としては一生懸命に仕事をしたがそれがかえって逆効果になってしまったということになりかねません。例えば、伝統的な工芸品を一つずつ作る会社から量産商品を作る会社に転職して、以前の会社と同じように時間ばかりをかけてゆっくりと製品を作っていたのでは会社の使命に反してしまいます。

 ですから、まずこの会社の社会的使命は何なのか、何がこの会社に求められているのか、これをしっかりとつかむことが大切です。まずそれが頂点にあって、次に自分の部署の使命があり、そしてその下に自分の役割が山の裾野のように広がっていくのです。ですから、個々の仕事の重要性を知るということは、この山の姿を見るが如く、何が上で何が下で何が横にあるのかを見ていくことに他なりません。もちろん自分が持っている仕事の中でも上下関係がありますので、山の裾野にそれらを見ていくことになります。

 実は、このような見方が立体的にとらえていくやり方で、例えば、鳥瞰図(ちょうかんず)という地図がありますが、鳥瞰図のように山や谷を立体的に見ていくようなものだと思っていただければいいと思います。

 このように一見何でもないような物事の集まりから、どれが上にありどれが下にあるかを分かっていく、こういう物事の見方がこれから仕事でも求められるようになっていきます。例えば、少し仕事の話しから外れますが、夜空の星空を見て、単に光の点にしか見えない人と、それらを星座として見られる人の違いでしょうか。また、過去の歴史を単なる出来事の集まりとしか見えない人と、歴史は虹のようだ、あるいはその姿が時代によって変わる光の大河のようだと見る人の違いでしょうか。

 物事というものは、それ単独でありながら実は他と深いつながりを持っているものです。仏教ではこのことを空間縁起とも言いますが、必ず互いに関連があるものです。それを見抜く力も実は認識力であり、このような見方ができる力は哲学者だけのものではなく、会社の中で仕事をしていく人たちにとってもこれから必要とされる力となっていくのではないかと思います。

 つまり、仕事という環境はありがたいもので、それを通して生活の糧を得られる場であると同時に、失敗や成功を重ねることによって認識力を高められる場でもあると言うことができるかと思います。ですから、仕事を単にやっつけで行うのか、それとも、そこから多くを学ぼうとするのか、その姿勢によって得られるものが大きく変わってくると言うことが出来ると思います。(竹内)

(*1)『仕事と愛』(幸福の科学出版)参照

 

    ●平成14年10月07日 仕事を立体的にとらえるために

 
 先回は、仕事を立体的にとらえるということについて述べました。その中で、「立体的にとらえる」ということを実にさらりと述べてしまった訳ですが、けっこう立体的にとらえることも難しいものです。そこで、今回はそのために何が必要かを考えてみたいと思います。つまり、言葉を変えるならば、ものごとを認識する力について述べてみたいと思います。

 おおよそ人間がものごとを認識するためには、大きく分けて「記憶力」と「思考力」が必要とされるのではないかと思います。記憶力とは、文字通り過去の経験や学んだことを記憶する力であり、ものごとを判断するときに重要な役割を果たします。つまり、ものごとを判断する場合に、人間は自分の過去の記憶と照らし合わせて、それがどういうものかを判断するからです。

 例えば、ホテルに泊まったときにテレビを発見したと致しましょう。そのとき、人はそれが何であるかを自分の過去の記憶から探し出し、類似したものを見つけ出します。そして、同様のものがあれば、それだと判断します。もし、テレビを過去一度も見たことのない人であったならば、当然自分の記憶にありませんので、それがどういうものかを判断することはできません。 

 このようにして人間は、自分が記憶しているところの過去の自分の経験や知識を通してものごとを判断しています。従って、新しいこと(物)は、それを新しく経験するか知識として学ぶしかない訳で、もしそれをしなかったならば、以後それを認識することはできないということになります。実は、この記憶力と判断力で現れる能力のことを「知性」とも呼んでいます。

  次に、思考力ですが、これはものごとを広く認識するための力となります。例えば、先ほどのテレビの例ならば、自分が過去見たものとまったく同一のメーカの同一のモデルのテレビだと、これはすぐにテレビだと判断できますが、最近では壁掛け型の薄いテレビがあったり、スクリーンに映し出すテレビもあります。そう言った場合でも、テレビであると認識するためには考える力が必要となります。例えば、テレビである条件は、「テレビ放送を受けてそれを映像と音声で表現することである」ということですが、これを満たしているかを考えることになります。

 つまり、この思考力とは論理的にものごとを考える力であり、簡単に言えば「〜ならば〜である」というように考えることでもあります。この考える力のことを「理性」と言ってもいいでしょう。

 そこで、本論に戻りますが、仕事を立体的にとらえるためには、この記憶力と思考力を使うことが不可欠となります。つまり、一つひとつの仕事について、それがどういうものであるかを最低知っていることが必要となります。もし、知らなかったならば、他人に聞くなり書籍や資料を読んだり、あるいは専門の学校で学ばなければなりません。

 そして、次にそれらを立体的にとらえていくためには、それらの仕事の流れやその間の関連について考えていかねばなりません。つまり、どの仕事の先にどの仕事があって次にどの仕事があるのか。そして、これらの仕事のゴールは何なのかということです。さらに、これら一連の仕事は何を目的としているのかを明らかにしていきます。

 例えば、企業における電話による客先からの注文受けの仕事があれば、この仕事は、どこから始まるのか。そして、そこで処理するべきことは何なのか。さらに処理したものをどこに渡すのか。そして、これら一連の受付の仕事の目的は何なのか。これらを、考え考えして明らかにしていきます。そして、さらに他の仕事も分析していきますと他の仕事の目的も導かれます。そうしますと、それらの目的からさらに上位の目的が導かれることになり、それらが積み木のように立体的になっていくことでしょう。

 もちろん、導き出す順序は下からでも、上からでもどちらからでもいい訳ですが、先回述べました仕事の中心概念からトップダウン的に求めた内容と一致する必要があります。いずれにしてもそこに考えると言う作業が伴いますので、仕事を立体的にとらえるということは、ある意味で知的労働そのものであるということができます。従って、これからの仕事の内容は、決められた作業を行うことは当然として、そこに考えるということが常に含まれている必要があると強く思われるのです。

 実は、今まで述べたことはシステムを構築する場合に一番必要とされることでもあるのです。つまり、システム分析、あるいはシステム設計、とりわけデータベース設計の作業で最も重要とされる作業が、この仕事の分析であるのです。鶏が先か卵が先か分かりませんが、知的なアプローチによって仕事を捉えるということが今や、企業のどの局面においても強く求められていると言うことではないでしょうか。(竹内)

 

    ●平成14年10月17日 さわやかなノーベル賞受賞者、田中耕一さん

 

 今回も仕事について述べるつもりでしたが、日本のお二人の方がノーベル賞を受賞されるという嬉しいニュースに大喜びしてしまい、今回はこの素晴らしい受賞について少し考えるところを述べてみることに致しました。

 さて、今回のノーベル賞の受賞は、物理学賞を小柴昌俊・東大名誉教授、ノーベル化学賞を島津製作所のライフサイエンス研究所主任、田中耕一氏(43)のお二人が受賞されました。日本人のノーベル賞受賞は今回で十二人目ですが、田中耕一さんは戦後生まれとして初めてで、かつ、湯川秀樹博士(当時42歳)に次ぐ若さだということです。しかも大学院に進んでおられず、博士号も修士号も持たない研究者の受賞は化学賞の歴史で初めてとなるそうです。

 そこで、ここ1週間ぐらい毎日のように、この意外(?)な若き受賞者である田中耕一さんのニュースが伝えられていますが、それらを知るにつけて、私にとっては段々と意外でも何でもなく、むしろ当然であったように思われてきたのです。

 受賞の通知を受けられて直後の記者会見は、作業服を着てでの非常にびっくりしたという内容の会見でした。知らせを受けて、まさかと思いこれは「ドッキリ」ではないかとも思われたそうです。そして、さらにその偉大な業績は失敗から生まれ、まさに「ひょうたんから駒」とも述べられました。また、私だけが受けるべきものではないともおっしゃいました。新聞では、会社での肩書きが主任で、ソニーの入社試験を受けて落ちたことも伝えられていました。それを聞きまして私もそのまま受け取り、世の中にはこんなに幸運な人もいるのかなと思っておりました。

 しかしです。田中耕一さんに関するその後の情報を一つひとつ知るにつけて「なるほどな」と思ったのです。

 まず第一に、生い立ちです。田中耕一さんは、生まれて1ケ月足らずで母親を亡くされたのです(そう言えばお釈迦様もお母様を生まれた直後に亡くされています)。そして、島津製作所に入社直後に上司に何をしたいのかを聞かれたときに、「自分の研究で人の命を救いたい」と答えられたそうです。それは東北大時代、お母様が出産直後に亡くなったことを聞かされ、ショックを受けて以来、抱き続けていた夢だったとのこと。まず、第一に仕事の目的が「人の命を救う」という愛にあったことがあげられます。

 第二に、本人は「ひょうたんから駒」と言って自分の研究が失敗から生まれたと謙遜されていますが、ここに非常に非凡さが現れているのではないかと思います。10月15日の氏の講演のスピーチにもありましたが、何か変わったことがあったら既成概念にとらわれず、徹底的に解明する態度が必要とおしゃっています。まさにその態度が今回の業績をもたらしたのではないかと思います。通常の人なら失敗して変なデータが出てきたら、ただ捨てるだけのことです。失敗を失敗としない非凡な研究態度があったからこそ、と言うことができるでしょう。本人は、記者会見で1%のひらめきと99%の努力の言葉にも言及されて、本当は大変な努力の人だということです。

 第三に、「無欲の大欲」の人であると言えるのではないでしょうか。無欲の大欲というと矛盾しているように聞こえますが、その意味は、私(わたくし)においては無欲でありながら、世の人々を救いたいという意味においては非常に大きな欲を持っているということです。ですから、最近では特許の報酬をめぐり訴訟にまで至るケースがある中にあって、田中耕一さんは私的な見返りを望まず、また肩書きもいらないという魂の郷愁のような「さわやかさ」を人々に与えたのではないでしょうか。

 第四に、「知る人ぞ知る」のとおり、田中耕一さんは日本ではあまり有名でありませんでしたが、この五月に京都工芸繊維大学で開かれた日本質量分析学会で、受賞の前兆とも思える一幕がありました。特別講演に招いた質量分析の世界的権威である米国パデュー大学のグラハム・クック教授が、講演の中で「田中がいい、田中の仕事は素晴らしい」と、しきりにほめられたそうです。

 以上から考えますとまさに法則通りだなと感じました。それは「与えた愛は与えた人のものになる」という法則です。自分のことを考えず、人々のためにと思ってやっていることが、その実、自分に返ってくるという愛の法則です。しかしながら世の中には、この逆をやっているのではないかと思われる人々が多くおられます。すなわち、人から取ろう、もっともらおうとして、逆に奪われている人のあまりにも多いことに驚かされます。

 さらに、努力は必ず実る。それはまさしくエネルギー不滅の法則そのものです。なした努力は、たとえその時点、その地域で評価されなくても、必ず実るという法則です。これだけやったのに誰も認めてくれないと思う方もおられるかと思いますが、その考え方ははっきり言って間違っています。世の法則はくらますことはできません。仏教ではこれを「不昧因果(ふまいいんが)」ともいいますが、田中耕一さんの努力は実ったということです。さらに、言わせていただくならば、たとえその実りが生きている間に実らなくても、あの世で必ず報いられるものであるということです。これが、かの有名な「縁起の法」と呼ばれるものなのです。

 今回は、私も嬉しくて思わず説教めいた話しを致しましたが、かえって一連のニュースによって多くを学ばさせていただきました。ここで改めましてお二人の受賞に心から祝福をさせていただき、今回のコラムとさせていただきます。(竹内)

 

    ●平成14年10月27日 新たな戦争形態の出現

 

 ノーベル賞受賞の「いい知らせ」に気持も、うきうきとしていたところに、今度は矢継ぎ早に、テロのニュースが舞い込んできました。バリ島での爆弾テロ、そして、すでに解決をしましたが、モスクワでの劇場占拠テロ。そう言えば、昨年の9月11日の米国における同時多発テロ以降、どうも世界がおかしくなってきているのではないか、と思われるようになってきました。

 第二次世界大戦後、世界は共産主義国と資本主義国の二大勢力に分割され、長い間東西の冷戦が続きました。しかし、1991年のソ連の崩壊を機に東西の冷戦も終わりを遂げ、人々は、誰しもがこれから平和な時代がやってくるのだと思っていました。何しろ二大国間の戦争の危機がなくなったのですから・・・。

 しかし、大国同士の戦争はなくなったものの、小さな争いは絶えず、さらに、軍隊同士が武器を持って戦争をするという戦いの形式から、女性や子供を含む民間人を標的にするという、言わば「ルール違反」のような形への戦争形態になってきたという感すらあります。

 なぜこのような形態になってきたのでしょうか。それを考えますと、どうもまともに戦ったら勝つことはできないので、ルール違反で卑怯だと言われようとも、何としても戦うのだという新たな戦争(戦争と言えるか分かりませんが)形態が生まれてきたように思われます。つまり、超強者と弱者の新たな戦いの形態が生まれてきたということではないでしょうか。

 しかし、これは現代に始まった訳ではなく、歴史的に常にあったことで、奇襲作戦という名で呼ばれてきたものでもあります。しかしながら、過去との違いは、その戦いが国家間の戦いに、もはや限定されるものではないというところにあります。要は、犯罪と見分けがつかないが、しかし、それが戦争なのだということでしょう。

 ですから、ブッシュ大統領が、昨年の同時多発テロ発生の直後に、事件を単なる犯罪ではなく「これは戦争だ」と言った意味も分かるような気がします。

 では、どうすればいいのか。もちろんこれが分かれば、世界の政治リーダとなることができる訳で、私にはもちろん分かるところではありませんが、でも心の問題から考えていきますと、問題の論理構造が見えてくるかも知れません。

 まずは、なぜテロリストたちは米国にしろ、ロシアにしろ、イスラエルにしろそれらの国を憎んでいるのかです。もちろん当事者にしか理解できない深い理由があるとは思いますが、ここには強者と弱者の関係があるのではないかと思います。

 すなわち、弱者から強者を見れば、強者だけがなぜ多くを取っており、我々には少ししか分け与えられないのか、ということではないかと思います。これは領土にしろ、富にしろ、資源にしろ、どれについても言えることでしょう。「もし世界の人口が100人だったら」という本が一時多く出ましたが、世界のエネルギーや富をごく少数の国が、いかに集中して独占しているかが述べられていました。

 一方、強者は、自分たちが今まで営々として努力し、投資して築いてきた富であるので、多くを手にするのは公平の観点から言っても当然である、という理論を持っているのではないかと思われます。

 これらを見ていきますと、それぞれについて、もっともなところがあります。ですから、片方だけの視点で見ますとそれぞれに正しく、もっともであるという結論になります。

 ではこれらの相反する両者の問題をどのように同時に解決していけばよいのでしょうか。ここが難しいところとなります。

 そこで、前々回にも述べましたように、立体的に考えることが必要となるのです。もし、この世界という「パイ」が一枚で、その大きさが一定であるならば、確かに力の強い人間が多くを取れば、弱い人には少ししか行き渡りません。これは当然のことです。

 しかし、もしパイが2重、3重のように何枚も新たに現れてきたならば、パイの取り合いはなくなっていくでしょう。例えば、先日、トヨタとホンダが水素ガスを燃料電池とした電気で動くバスと自動車の試乗会を行っていましたが、もし、これが世界の全国に行き渡れば、原油資源の取り合いによる争いはなくなるでしょう。

 また、工場で、特別のLED照明を使って、通常の畑で作物を栽培するよりも、何倍もの生産性で栽培できる技術が、もうそこまで実用化の段階に来ていますが、もし、これが行き渡れば、耕作面積のために領土を争う必要はなくなるでしょう。

 そのように、まずは「パイの取り合い」思考を止め、パイを増やす方向へと考え方を変えていくことです。

 さらに、強者においては、もう一度「騎士道精神」、つまり「ノーブレス・オブリージ(成功者にはそれ相応の義務と責任があるのだという考え方)」を取り戻すべきです。もちろん、自分が過去努力したから成功した、ということには変わりはありませんが、成功者には成功者の義務があるのだ、と思うことが必要だと思います。

 すべてを自分の手柄と思わずに、他のいろんな人々の助けがあったからこそ、今の自分の成功があるのだ。さすれば、この成功を少しでもいいから人々に恩返ししていこう、と思うことが必要ではないでしょうか。

 デフレの時代はさらに続くだろうとも言われています。デフレの時代で、かつ、情報化時代には、さらに一極集中型での勝ち組みが現れることが予想されます。ですから、これからますます、この「パイの取り合い」思想を捨てることと、「騎士道精神」を高めていくことが必要であるのではないかと思われてなりません。(竹内)

 

    ●平成14年11月07日 産業革命以来の大変革が起こっている

 

 もう20年以上も昔のことになりますが、アルビン・トフラーが『第三の波』を著しました。その中で、トフラーは、人類の歴史の中には大きな変革の波が3つあって、まず第一の波は「農業革命」であるとしました。それは人類が、太古の昔から続けてきた狩猟社会から脱して農業社会へと移行し、作物が蓄えられるようになったことによって定住生活を可能とし、様々な変化をもたらした革命であると述べています。

 そして、第二の波が「産業革命」で、それまでの馬や牛などに頼っていた「動力」が蒸気機関によってとって代わられ、工場などでの大量生産を可能とし、それによって大きな会社組織が現れるようになった革命であると述べ、さらに、第三の波が、現代起こっているコンピュータなどの情報機器がもたらす「情報革命」であるとしました。

 私は、その時点ですでにコンピュータの仕事に従事しており、当時はコンピュータが産業革命に匹敵するぐらいの大きなインパクトをもたらすものとは、どうしても思えませんでした。確かに伝票などを扱う事務処理の世界では、コンピュータは取引内容を正確に計算したり、それを高速に印字することができましたし、また、銀行ではキャッシュ・ディスペンサーによって、カードと暗証番号さえあれば、いとも簡単に預金の出し入れが出来ると言う利便性をもたらしました。

 しかしながら、これらはあくまでも従来までの事務処理形態をコンピュータという道具を使ってでの効率化であり、社会構造を変えるぐらいの大きなインパクトがあるとは、とても思えませんでした。ですから、コンピュータ技術の中心にいる私にとっては、当時『第三の波』を読んだときは、コンピュータの過大評価ではないかとも思えたものです。

 しかし、産業革命だってニューコメンによって初期の蒸気機関が発明されてから、実際にジェームス・ワットによって実用化のレベルに達するまでには、それから50年以上たってからのことと言われていますし、コンピュータが発明されてから、やはりそれぐらいの時間は必要なのかも知れません。

 私が思うに、この「情報革命」が本当にそのとおりだと思えるようになったのは、インターネットの出現によるところが大であるのではないかと思います。インターネットには、色々な機能があります。例えば、会社や個人のホームページを開いてそこから知りたいことを得る。また、ニュースやお買得情報を得る。さらに、商品をインターネット・ショッピングやオークションで買ったり売ったりする。またはゲームをする、などなどそれは数えたらきりがありません。

 確かに、画面に向かって買物をしたりゲームができるということは、ショピングセンターやゲームセンターに行かなくてもいいという大きなメリットがあります。しかし、これらの機能は、効率的になったというものだけのことであり、抜本的な社会変革にならないのではないかと私には思えました。なぜなら、インターネット出現の前から電話やFAXによる通信販売はあったのですから・・・。

 私は、インターネットの機能の中で、大きな社会的変革をもたらすものは、その情報収集能力にあるのではないかと思っています。つまり、今まで個人が容易に得ることができなかった情報が、キーワードだけで簡単に取り出せるということにあるのではないかと思っています。

 例えば、Googleという検索サイトがありますが、「第三の波」をキーにして検索すると、実に2430件もの関連サイトが瞬時に現れるのです。もし、これを図書館で探し出そうとしたらどうでしょうか。おそらく一日仕事になるのは間違いありません。

 そんなこと当り前だと思われる方もおられると思いますが、この検索機能がもたらす「情報優位」には、恐いところがあります。従来、官庁も企業も、国民に対してその優位性を維持することができたのは、それが持つ情報の質と量にあったのではないかと思います。例えば、企業は、消費者よりも圧倒的な情報を持っていたが故に、消費者よりも高い優位性を保つことができました。いわば、コントロールすることができたと言えるでしょう。

 しかし、各消費者が、インターネットによって家庭に大図書館と大資料館を持っているとしたならば、その優位性は崩れてしまいます。つまり、今起こっていることは、「情報による力関係の逆転」あるいは「情報による個人の復活」が起こっていると言って過言ではありません。ですから、消費者の個々の声に耳を傾けなかったり、あるいは、これをあなどったりすれば必ずその反動がやってきます。でも、その反動は静かです。ただ、無視されるだけのことですから・・・。でもこれは恐いです。企業にとっては、倒産するかも知れないからです。

 ですから、現在の混乱は、今起こっているこの変化を知らずに、従来でのやり方にまだ執着している組織が、今壊れようとしているところにあるのではないかと思います。

 しかしながら、この波にいち早く乗った企業もけっこうあります。例えば、松井証券の松井道夫社長は、顧客を囲い込むことはできない、客が会社を選ぶ時代だと言って、徹底的にお客が望むものを提供し、客に選んでもらうという戦略を採られています。その結果、低迷が続く証券業界で非常にいい業績をあげられています。

 では、これからの企業戦略をどうすればよいのか。

 それは、以上述べた「情報革命」の波が押し寄せていることを前提にした戦略が採られなければなりません。つまり、消費者が選ぶ時代であるということは、消費者に選択してもらえる情報(お得な価格や機能、サービスなど)を見える形で、出来る限り提供していくことが必須となります。例えば、ホームページなどでは、この会社は何を考えているところで、その商品のコンセプトや価格、機能、サービスはどうなっているのかを、他社と差別化してアピールすることが必要となるでしょう。

 ですから、これからホームページの作り方も当然変わっていくことでしょう。今までのホームページは、そのデザイン性が重んじられ、内容である会社情報や取り扱い製品は紹介程度で良かった訳ですが、これからは、会社の経営理念や製品の優位性などの情報が重要視されます。そして、消費者は、ホームページの「見てくれ」よりも、それらの情報をこそ購買の判断材料としていくことでしょう。

 一方、企業においては、少しでも他社と違った斬新な製品を出すことが必要となるため、これからますます研究開発をすることが重要になります。従って、従来での根性による売込みは、だんだんと通用しなくなっていくことでしょう。

 顧客が何を欲しているかという情報を徹底的にキャッチして、創意工夫し良い製品を日夜研究し生み出すことが必要となります。確かに今、業績をあげている会社は、研究開発にすごく力を入れているという共通の事実があるのです。

 さらに、デフレの時代ではこれらの傾向がますます強くなります。つまり、顧客は商品を買い急ぐ必要はなく、むしろ後で買ったほうが安くなるので、じっくりと情報を集めて比較検討するという傾向が強くなります。すなわち、顧客はサイトを検索し1円でも安いところ、機能的に優れているところ、サービスのいいところに注文をすることになりますので、ますます一極集中型の傾向が強くなることでしょう。

 また社員においても、これからの仕事に必要とされる能力も当然変わってくることになります。従来では記憶力のいい人が頭のいい人とされてきました。また学校教育も記憶力を試験する方向で教育がなされていました。でも、これからは、誰でもがインターネットによってすぐに知りたい情報を手に入れることができますので、それらを暗記することよりも、むしろそれらの情報を使って考えるという「思考力」が重視されることになるでしょう。

 従って、それによって学校教育の内容の変更も余儀なくされますし、企業における社員の必要能力にも当然変化が現れます。すなわち、情報機器を使って自在に大量の情報を集める能力と、それらから必要な情報だけを取り出すフィルター能力と、そして、それらを材料に考える能力とが必要とされるのです。そう言えば、最近「考える」ということを題材にした本がベストセラーになっていることもうなずけることです。

 世の中では、不良債権処理とデフレ政策についてマスコミも評論家も議論が沸騰し、今や混沌としているところがあります。でも、今起こっている変革は産業革命以来の大変革であり、その変革の意味を真に理解しなければ、いかなる形での方策も、しょせんあのドンキホーテが風車に立ち向かったときと同じ「もの悲しさ」を帯びていると言わざるをえないのではないでしょうか。

 すなわち、今起こっている変化とは、これから「個人の時代」がやってくるということです。しかしながら、この個人とは、自由と権利のみを主張するものではなく、義務と責任をともなったものであるところに時代の新規性があるのではないかと思います。

 ルールも大切ですが、そのルールもある日突然、見えざる手によって変えられるものです。そのとき、それを嘆くのか、それとも自分を変えるのか、その決断を今迫られているのではないかと思います。(竹内)

    ●平成14年11月17日 情報のすごさ、恐さ

 
 先回のコラムで、人類の三大革命の一つであると言われている「情報革命」について述べました。今回は、その情報の「すごさ」と「恐さ」について考えてみたいと思います。

 まず、そのすごさですが、それは情報を知るということに関係しているのではないかと思います。「知は力なり」という有名な言葉がありますが、まさに情報を知るということには、力(パワー)があるということです。しかし、この情報については、人・物・金に次ぐ第4の資源であると言われておりながら、さほどその重要性が認識されていなかったと言うのが実状ではないでしょうか。

 では、なぜ今まで重要視されてこなかったのでしょうか。その理由を考えてみたところ、情報が他の3つの資源と根本的に違うところは、目に見えないということでした。

 例えば、「人」は目に見えますし、触ることもできます。「物」も、「金」もそうです。しかし、情報というものには形がありません。また、それ自体物理的な重さもありません。ですから、人間というものは、形があって目に見える具体的な存在に対しては、その価値を感じることができるのですが、目に見えないものに対しては、どうしても理解できないところがあるのではないかと思います。

 しかしながら、よく考えてみますと、4番目にあげられる情報ではありますが、他の3つの資源は、この「情報」によって大きくその成果が変わってくるのも事実です。

 例えば、「人」について考えるならば、もし、どこどこに、こういう素晴らしい人材がいるのだという情報があれば、いい人材を確保することができます。また「物」についても、どこにいい物があるかを知っていればそれを得ることができます。

 例えば、今地球のまわりには多くの人工衛星が回っていますが、その中に資源衛星というものがあります。この衛星によって、地球のどの地点に多くの原油が埋蔵されているのか、また、どこに貴重な鉱脈があるかということが手にとるように分かるそうです。この情報があれば、それらを得ることができるのです。

 さらに、お金についても、これは情報なくして論じることができないくらいに両者は密接なものとなっています。例えば、株価や為替の情報、金利の情報、売れ筋商品の情報など、情報とはお金そのものであると言えるほどになっています。

 そのように抽象的でその価値が分かりずらい情報ですが、最近とみにその重要性が指摘されるようになりました。例えば、先の太平洋戦争にて日本が負けたのは、この情報戦のところで負けたとも言われています。しかし、どうしても負けたのは、空母の数や飛行機の数ではなっかったのかと思ってしまうものです。

 ここで、簡単な例をあげてみたいと思います。例えば、自分が服を売るお店を経営していると致しましょう。服の販売には季節というものが非常に影響します。夏には半そでや薄い涼しそうな服しか売れませんし、冬には、逆に暖かそうな服しか売れません。これは、子供にも分かる当り前のことです。

 もし、店を経営している自分が、これから夏が来ることを知らずに冬服を店頭に並べたらどうでしょうか。おそらく、1枚も売れることはないでしょう。つまり、これからどういう季節が来るかという情報、あるいは知識と言ってもいいですが、それを知らなくては商売をすることはできないということです。

 このような簡単な例では、自分はこのようなバカなことをするはずはないと思われる方が多いと思います。しかしながら、これと同じようなことをしている人や企業が結構多いのも事実です。

 P.F.ドラッカーは、著書『イノベーションと企業家精神』の中で、イノベーションの機会として七つのケースをあげていますが、その中で人口動態の変化をイノベーションを行うべき機会であるとしています。つまり、人口の変化は、先ほどの季節の変化と同じように売るものを変えていかねばならないということなのです。

 日本は、もう完全に少子化の傾向の中にあり、将来の人口の減少が危惧されています。一方、イスラム世界や日本以外のアジアではまだまだ人口が増え続けています。そういう地域では、子供が多く、将来子供たちが大人になれば結婚し新しく住居も必要となるでしょう。そうすると、新築の家がよく売れるということですが、日本では季節が変わったように、新築の家が以前と同じように売れるということは難しくなります。

 実は、アメリカがいまだに新築の家の売れゆきがいいので、同じ先進国である日本も売れるはずだと思いがちですが、人口という情報に目を向けますと、アメリカでは移民の流入によって人口が現在も増え続けており、日本とは明らかに違うのです。ですから、日本はアメリカと同じ先進国だから同じだろうと思うと、とんでもない判断をしてしまうことになりかねません。要は、人口の変化という情報が大切なのです。

 一方、日本ではもう住宅産業がだめかと言えば、そうではありません。団塊の世代がマイホームを手に入れてもう20年から30年が経っていますが、今度は、リホームの需要が増えてくるのです。そうすると、そこに新たなビジネスチャンスが増えることになりますので、当然商売の内容を変更していかなくてはならないということになります。最近、テレビでリホーム番組が高い視聴率をあげているということも、その変化を物語っていると言えるでしょう。

 このように、情報を知るということには企業が大発展するだけの、あるいは戦争に勝てるぐらいの大きなパワーがあるという「すごさ」があると言うことが出来るでしょう。

 次に、情報の恐さについても考えてみたいと思います。情報のすごさが、情報を知るということにあると述べましたが、恐さは、逆に情報を知られると言うところにあるのではないかと思います。

 「悪事千里を走る」ではありませんが、情報というものは優れた企業などにとっては良い追い風となるものですが、そうでないところにとっては逆風の厳しいものとなります。

 例えば、情報化社会においては誰でもが、しかも容易に情報が得られますので、他の企業との比較が日常的に行われるようになります。近年、価格比較サイトというインターネットのサイトが数多く現れ、同じ製品がどこでいくらで売っているかが、びっくりするぐらいに分かるようになりました。

 そうすると、消費者は同じものであれば、1円でも安いところで買おうとするのは当たり前となって、コストダウンせず相変わらず高い値段で売り続ける企業からは買わなくなるのは容易に想像できます。ですから、たとえ高くても付加価値があれば生き残れますが、そうでないとするならばこれからは相当厳しくなると考えたほうがいいでしょう。

 従ってこれからの企業においては、自分の企業の情報が知られていることを前提に、その企業戦略が立てられなければならないということになります。すなわち、商品の価格を始めとする自分の企業の種々の情報が知られたとしても、充分に顧客は自分の企業を選んでくれるのだということを、事前にシミュレーションをして確かめなくてはならないということを意味します。そのためには、当然同業他社の情報を得て、検討し尽くさなければならいということは言うまでもありません。

 つまり、これからの情報社会では、自分の企業において知られては困るようなことは無くし、逆に知ってもらいたい情報をどんどんと増やしてしていくことが大切になるのではないかと思います。そうなると、過日問題となった企業における種々の不正も当然なくなっていくことでしょう。

 以上、情報のすごさ、恐さについて述べましたが、これからの時代はますますこの傾向が強くなるということには間違いがありません。そうであるならば、それに対応できるように、自らを適応させていくしかないと思うのが自然な考え方ではないでしょうか。(竹内)

    ●平成14年11月27日 読書の時間を取ろう

 

 先回は、情報のすごさ、恐さについて述べました。その中で、「情報を知るとは力なり」とも言いました。この情報の中には、広い意味で知識も含まれると考えられますが、今回は、それを得る手段としての読書について、私の自戒も含めて述べてみたいと思います。

 情報を得る手段には色々とありますが、それを知識としてじっくりと消化しながら得るためには、やはり伝統的な方法ではありますが、それは読書に限るのではないでしょうか。しかし、最近の書籍の売上を見ていますと、全体的にはどんどんと下がってきているというデータがあります。(平成8年の年間9.15億冊の売上が平成13年には年間7.49億冊まで段階的に落ちてきている「総務省統計局資料より」)

 しかしながら、知識を得るということではこれほど安価で、しかも効率的な手段もないのではないかと思います。例えば、ある偉人の自伝や伝記を読みますと、その偉人が何十年かをかけて悟ったことの内容が、それだけの時間をかけず、あるいはそのような経験をしなくても手に入れられるということは、これほど効率的な方法もないと言えます。

 そのような価値がありながら、書籍は千円から数千円で買うことができるのです。しかも、自分の記憶力さえよければ永遠に残っていくものなのです。例えば、昼食を食べるためにレストランに行ったとします。そこで、ちょっとリッチな昼食をとれば数千円はするでしょう。しかも、そのときはお腹がいっぱいになったとしても、夜またお腹が減って夕食をとらなくてはならないという持ちの悪さです。

 こういう意味から考えますと、書籍は、価値の割には安すぎると言うこともできるのではないかと思います。ならば、これを利用しない手はないと言うことが出来るのではないでしょうか。

 そうであるにもかかわらず、なぜ現代の人は、あまりにも本(マンガ週刊誌類は除く)を読まなくなったのでしょうか。

 その理由として、まず第一にあげられることは、読書に対する価値を感じていないのではないかいうことです。つまり、その必要性を感じてないのではないかと言うことです。もし、本当にそれが必要だと思っているならば、どんなに忙しくても本を読むはずです。なぜなら、人間は、どんなに忙しくても食事をしたり、睡眠を取ることはきちんとしているからです。それは、食事や睡眠を本当に必要だと感じている証拠です。ですから、年々読書の優先順位が下がってきているのではないかということなのです。

 第二に、人間は、自分のことに直接的に関係あることには関心があるが、そうでない場合には関心が薄いということです。例えば、仕事上などで必要とされる参考図書はよく売れていますが、そうでないものは段々と売れなくなっています。従って、それだけ関心の範囲が狭くなってきていると言うことができるでしょう。最近小説などが読まれなくなった原因も、ここにあるのではないかと思います。

 第三に、良い意味でも悪い意味でも現代は情報化社会であり、読書をしなくても、テレビや新聞、さらにインターネットからの情報を、さらっと流し読みするだけで分かった気になれるところがあると言うことです。ですから、重たい内容の本を、じっくりと読むことはしなくなって来ているのではないかと思います。

 では、どうすれば、もっと人々が本を読むようになるのでしょうか。

 それに対する最もいい方法は、読書の必要性を個人個人が痛切に感じることが一番だと思います。「必要は発明の母」という言葉がありますが、まさにそのとおりだと思います。必要性を身にしみて感じれば、人間は発明もしてしまうものです。ですから必要性を感じれば、必然的に行動へと転化するものです。

 例えば、つい最近までペイオフの問題で、日本国中が恐怖の中にありました。もし、銀行が破綻すると、預金の1000万円までの部分と、それまでの部分の利息しか戻ってこないということで、まず定期預金から普通預金の大移動にはじまり、かなりの混乱の中にありました。(預金額が1000万円以上なくても何か不安でした。)

 そのとき、銀行を使っていない人はほとんどいないので、人々は新聞を読んだり、銀行で聞いたり、あるいは友人に聞いたりと、かつてないほど情報収集に積極的に動きました。そのように、必要性が起きれば人々は行動するものです。ですから読書の必要性を作り出すことが一番のいい方法だといえます。

 それは、まさに「馬を水辺に連れていくことは出来るが、水を飲ませることは出来ない」というたとえの如く、各自が読書の必要性を感じなくては無理であるというところがあります。

 ですから、逆に経営者や上司は、例えば、「今、同業他社も業績悪化に苦しんでいるが、世の中で好業績を上げている企業から学ぶとしたらどういうことがあるだろうか」、「これから中国などから、さらに安い製品が入ってくることが予想されるが、そのとき日本は、そして当社はどうしていけばよいのだろうか」、「日本は、今後、少子化が避けられないというが、そのときあなたはどうしたらよいと思のか」などと問題を提起して、積極的に問いかけていくことも必要ではないかと思います。

 入社試験ではありませんが、このように問いかけられたなら、もう関連図書を読まざるを得なくなることでしょう。あるいは、担当者の業務に必要な参考図書を上司が指定してあげることも一つの方法でしょう。

 さらに、これからは個人の時代がやってくると言いましたが、むしろ、これは恐いことでもあります。これを手放しで喜ぶ人もいるかと思いますが、これは決して個人が好き勝手にしていいという意味ではありません。人類は、個人から出発し、次に集団で生活することを学び、そして、今それを土台として、自由と責任、権利と義務を伴った新たな個人の時代へと向かっているのではないかと思います。

 そのときに必要とされることは、個性を持った自分の意見です。「私はこう思う」「私の意見はこうです」とはっきりと述べることが求められるのです。「他人がこう言っている」「世の中ではこうなっている」ということではなく、それらの情報や知識から、自分で考え、自分独自の意見がこれから求められるということです。

 そのためには、世の中に対して無関心にならず、また隣人に対しても無関心にならず、しかも、他人に振り回されず、自分で考え、自分の意見を持つという新しい個人の時代がやってくるということではないかと思います。そのためにも、これから益々書籍を読む時間を取ることが必要になるのではないかという予感がするのです。(竹内)