Rsun,株式会社アールサン,データベース中心主義,七の日コラム,データ駆動型データベース,R3D(京都清水寺の新緑)
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過去のコラム 平成15年6月〜平成15年7月まで
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●平成15年06月07日 愛と感謝について |
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先回のコラムでは、欲と感謝について述べてみました。その中で、双方ともに足ることを知ることに関連することを発見させていただき、足ることを知らない心は欲に関連し、足ることを知る心は感謝の心に関連することを述べました。 そこで今回は、さらに愛と感謝の関係について考えてみたいと思います。 心とは不思議なものです。つまり、人種や生まれ、性別、年齢に関係なくある共通の法則どおりに作用するものであるからです。まるで人間のすべてに同じ設計回路が埋め込まれているかのように思われます。 実は、そのことが創られたる証拠であり、また仏性(仏の性質)が人間に存在する根拠でもあります。 ですから、心の法則を知れば、自分や他人の心が今後どのように展開するかを知ることが出来るのです。 私は、かつて「あなたは、2分後、3分後に何を考えているかを分かりますか?」と問われたわれたことがあります(*1)。そのときは、そんなことは分かるはずはないと思っていました。 なぜなら、自分の考えていることと言うのは、まるであぶくのようで、次から次から勝手に湧いてくるように出てくるからです。ですから、次にどんな大きさのあぶくがどこに出てくるかが分かりますかと、問われたようなもので、そんなこと分かるはずがないと思ったからです。 しかしながら、心に法則があるということが分かって初めて、この問いの真意が分かった次第です。つまり、考えには法則性があって、この考えが出たら次にこの考えが出るというきまりがあるということなのです。 それを知ったならば、この考えの次にどういう考えがくるかが、法則に照らすと分かりますから、自分が2分後、3分後に何を考えているかが分かるということなのです。 ですから、その考えると言うことをコントロールすることによって、その先の自分の思いをコントロールできるという、自分でも信じられないぐらいの能力を手にすることができるということを意味しています。 これは、ある意味で人類に対して大きな福音ではないかと思います。なぜなら、それまでの心の法則を知らない間、人間は心に振り回され心の奴隷になっていたからです。 しかしながら、その法則を知ってからは、心の奴隷から開放され、自由(解脱)になることができます。そして、さらにその自由な境地は、毎日の平和(涅槃)な心境をもたらすことができるようになります。 さて、話がそれましたのでまた元に戻しますが、足ることを知る心は、感謝という心を生み出すことを述べました。 これは、法則なのです。足ることを知る、つまり自分が与えられていることを心底感じたならば、感謝と言う心が湧きあがってくるということは法則なのだと言うことです。 もちろんそれは心底です。つまり、軽く「与えられているかなあー」というレベルではだめです。真に与えられていると感じたときに、法則として人は感謝の心が湧き上がってくるということです。 これは、人種、年齢、性別、生まれに関係なくそのようになっています。 ですから、私はどうしても感謝の思いが出てきませんという方は、実は、「与えられている」「自分は満たされ足りている」という発見がなされていないという結論になります。 そしてさらに、この感謝が本物であるならば、必ず、「何かお返しがしたい」、「その人に尽くしたい」という思いが湧きあがってきます。これも法則なのです。 実は、この「何かお返しがしたい」、「その人に尽くしたい」という思いが、愛の実践へとつながっていきます。 しかしながら、愛と言っても世の中の愛の定義には、いささか誤解があるように思えてなりません。つまり、テレビのドラマや小説の中での愛とは男女の愛のことを言い、かつ愛されることを言っているように思えます。 いわく、どうしたら彼あるいは彼女から愛されるのか、彼あるいは彼女は私を愛してくれているのだろうか、ということがテーマになっているように思います。 しかしながら、愛とは本来相手に尽くすことであるはずです。相手に親切にすることであるはずです。 なぜなら、相手から本当に与えられていることを発見したならば、それが感謝の思いとなり、そして、必然的にその感謝の思いはお返しがしたくなる思いを生むからです。そして、このお返しの愛を、先ほど誤解されている愛と区別するために、「与える愛」といっているのです。 本来、愛とはひとつの意味であったわけですが、どういう訳か誤解のほうの愛が本流となり、本来の愛と区別せざるを得なくなって「与える愛」と言わなければならなくなったのではないかと思います。 そのように本当の感謝は、必ず「与える愛」の実践を伴います。つまり感謝から愛へと転化していく心の法則があるということです。 ここで、もう一度おさらいを致しますと、足ることを知り与えられていることを発見したならば、それが感謝の心を生み出します。そして、この感謝の心は、さらに与える愛の心を生み出し、その心が本物であるならば、必ず与える愛の実践を伴うという法則があることを学びました。 こうしてみますと、最初は足ることを知る知らないという心から発した思いは、片や、欲がつのり不平不満が出て、奪うという行為に至りますが、片や、感謝の心を生み、そして与える愛の実践へと進んでいくという大きな違いとなって現れるということが分かりました。 これはまるで、小さな流れから発した小川がその方向性を間違って氾濫すると、水害をもたらし人々を困らせる川になりますが、よくコントロールされて水田に導かれれば、稲をたわわに実らせる川になることに似ているようにも思えます。 この心の法則を知り、それを実践して生きることが、「仏陀とともに歩む」(*2)ということであることを改めて分からせていただいた次第です。(竹内) (*1)『悟りの発見』P.92;(*2)『大悟の法』第5章(幸福の科学出版) |
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●平成15年06月17日 愛と反対のもの |
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先回のコラムでは、愛と感謝について述べてみました。その中で、人間には共通した心の法則があり、感謝の心が本当に起きてきたならば、それが愛の実践につながっていくものなのだということを述べさせていただきました。 そこで、今回は愛と反対のものが何であるかについて述べてみたいと思います。 答えから先に言って申し訳ありませんが、フランシス・ベーコンが言っているように「愛の対極にあるものは、憎しみではなく嫉妬である」(*1)が答えなのです。 当初、私も愛の対極にあるものは憎しみや嫌悪の心だと思っていました。なぜなら、愛するとは「好き」であるということなので、それならその反対は「嫌い」であることだと思っていたからです。 しかしながら、これも愛の誤解からきていたのです。愛とは好き嫌いの問題ではなくて、自と他の一体感であり他人に尽くすことであるからです。 故に、愛の対極にあるのは嫌いということではなく「嫉妬」であったのです。 ではこの嫉妬の心は、どういう因果関係で生まれてくるのでしょうか。心の法則(*2)に照らしてみるならば、それは、自尊心と劣等感という二つのベクトルの合成によってその強さが決まるとあります。 そのことを知って、何か目からウロコが落ちたように感じたことを今でも覚えています。なぜなら、心の法則を科学的、かつ理性的に理解することが出来るということを知ったからです。 かつて、私は心というものは難解なもので科学的に捉えようがないものだと思っていたのですが、数学のベクトルという概念で捉えられるとは驚きでした。 そこで、それら関係を図示しますと下記の図のようになるのではないかと思います。つまり、「劣等感」と「自尊心」のベクトルの和でもって「嫉妬心」というマイナスの心のエネルギーが創られていると言うことです。
ですから、劣等感が強くなればなるほど、また自尊心が強くなればなるほどに劣等感はさらに強まってきます。なるほどなと思います。そして、このマイナスのエネルギーは強大なもので、愛のエネルギーを打ち消すぐらいの力を持っているとも伺っています。 そう言えば、かつて天使だった存在を地獄に堕としたのも、この嫉妬のマイナスのエネルギーだと言うことを聞きました。ですから、この嫉妬の心は非常の恐ろしいところがあるので、この克服は人類にとって非常に重要な課題であるかと思います。 では、次に劣等感や自尊心の逆のものを考えてみたいと思います。まず、劣等感の逆のものとは何でしょうか。それは自信です。ですから劣等感を克服するためには、過去の小さな成功体験を積み重ねて自信にしていくしかないのです。これは一朝一夕には無理ですが、根気よく成功体験を積むしかないということなのです(*3)。 一方、自尊心の反対は何でしょうか。それは「謙虚さ」だと思います。そうです謙虚な心です。自惚れが強い人は謙虚な心がありません。自分が偉いと思っているからです。もちろん、この自尊心には人を高みに導くといういい意味で働くこともありますが、劣等感と合わさったときには嫉妬心となって堕天使をも創るマイナスのエネルギーに変わるという恐ろしさを持っています。 では、それぞれの反対のものを書き、劣等感の反対のもの、つまり愛を書くと次のようなベクトルの関係図になりました。
つまり、愛というものは自信と謙虚さによって強くなっていくのではないかと思ったのです。もちろん、愛はこのような単純なことだけで表現することは無理ですが、少なくとも自信と謙虚な心がなければ、強くなっていかないのではないかと思います。 自分自身が劣等感で苦しみ自尊心でいっぱいの人が、自然な形で他人に愛を与えていくことは、とても難しいことではないかと思います。 今回は、愛の反対のものである嫉妬心について分析をしてみました。そのように、心というものは、それぞれの思いが単独に働いているのではなく、それらがある一定の法則のもとで関連し合って働いているのだということを改めて分からせていただいた次第です。(竹内) (*1)『新・幸福の科学入門』P.169;(*2)『同』P.240;(*3)『同』P.210(幸福の科学出版) |
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●平成15年06月27日 天国的な心と地獄的な心 |
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先回のコラムでは、愛と反対のものと題して、特に愛と対極にある嫉妬の心について述べてみました。その中で、人間の心の思いというものは、無法則にばらばらに存在するのではなく、互いに関連し合っていると述べさせていただきました。また、さらに心の思いは数学でいうところのベクトルと言う概念で説明することも可能だということを述べさせていただきました。 そこで、今回は、その色々な心の思いがありますが、天国的な心と地獄的な心を分析してみたいと思います。 それではさっそくですが、天国的な心にはどういうものがあるでしょうか。幸福の科学が出版している『反省の手引き』には、次の30種類の天国的な心が述べられています。
これらの天国的な心を見てみますと、心の安らぎを感じる心ばかりで、やはり天国が心の安らぎの程度によってその高さ(次元構造)が決められているということがよく分かります。 一方、心に安らぎがない状態がすなわち地獄的な心で、常にイライラして何かに怯えているような不安定な状態の心でもあります。その地獄的な心の内容について『太陽の法』(幸福の科学出版)の178ページには、次のものがあると書かれています。
天国的な心の表の最初に「愛」がありましたが、地獄的な心の最初は「ねたみ」の心で、これは嫉妬心であります。すなわち先回のコラムで述べさせていただきました愛の対極が嫉妬心であることが、またもやこの表で確認できた訳です。 ではこの表をどのようにして使えばいいのでしょうか。その利用法について、私の体験も含めて示してみたいと思います。 (1)まず、何が天国的な心で何が地獄的な心かを知る 人間というものは、何が天国的な心で何が地獄的な心かということが正確には分からないものです。今まで経験則的にしか物事を考えられなかったということによると思われますが、実は真理は学ばないと分からないものです。 例えば、「知って悪いことをするのと、知らないで悪いことをするのではどちらがより悪いことなのか」ということがよく話題になりますが、今まで生きてきた人生経験では、知って悪いことをするほうが断然悪いと思われる訳です。しかしながら、真実の目から見たならば、知らないで悪いことをするほうが悪いのです。 なぜなら、それが悪いことだと知らないが故に、この先も悪を犯し続けるということと、反省ができないからです。 ですから、何が悪くて何がいいことなのかを知るということは非常に重要なことです。前表の地獄的な心の29番に「孤独」がありますが、結構これが悪であるということを知らない人が多いのではないでしょうか。 私もそのうちの一人だった訳で、孤独なら誰にも迷惑がかからないからいいではないかと思っていました。でも、これは人間がこの地上に生まれて来て人生を歩んでいくという目的に反しているのです。もちろん、孤独だからと言って警察に逮捕されることはありませんが、真理の目から見たならば、しっかりとした悪であるということなのです。これも知らないと分からないことですね・・・。 (2)次に、知ったならば天国的な心を出し、地獄的な心を出さないように勤める これは当たり前のことだとは思いますが、一旦、天国的な心と地獄的な心を知ったならば、「はいそうですか」と終わってしまってはもったいないということです。それを実践しなければ、魂の損となります。 ですから、例えば今日はこの心に気をつけてこの心を出さないように努めようとか、今日はこの心を多く出そうと思うことが大切となります。これは意識しないと出来ないことになっています。 波のように自然にまかせて寄せては返すような思いでは、ノーコントロールになってしまいます。少なくとも自分の心ならば、自分で舵取りをしたいものです。 (3)そして、一日の終わりにこの表によって反省する 一日の思いを点検することを反省(*1)といいますが、これも車や機械類の点検と同じで、どの部分を点検しなければならないかという具体的項目が分からなければ、ぱっと見てOKとなってしまいます。あるいは、どこを調べればいいのかが分かりません。 ですから、反省と称して、「あ〜今日もいい日だったな」で終わってしまいます。このようにならないためには、具体的な点検項目に照らして反省することが大切です。 その黄金の方法が「八正道」(*1)と呼ばれる方法ですが、その前段階として、この2つの表で本日の心を振り返ってみるのもいい方法だと思います。私も、過去この表でずいぶんと助かった経験があります。 以上、今回も心の思いの内容について考えてみました。こういうことは、なかなか学校では教えてもらえないので、自分で学ぶしかないのが現状ですが、でも、現代という時代はそれを知ることができる稀有なる時代でもあり、ありがたい限りです。(感謝) (*1)『仏陀の証明』その他(幸福の科学出版) |
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●平成15年07月07日 真理はなぜ尊いのか |
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先回のコラムでは、天国的な心と地獄的な心について述べてみました。その中で、どういう心が天国的な心で、どういう心が地獄的な心であるのかを示しましたが、まずそれらを知ることが大切であると述べさせていただきました。そして、現代がそれらを知ることのできる稀有なる時代であることも述べさせていただきました。 では、なぜ、この時代が稀有なる時代なのか、なぜ、そんなにありがたい時代なのか、そこを今回は考えてみたいと思います。 よくお寺のお坊さんなどから「真理は尊い」とか「これは尊いお経ですよ」と言われたことがあったと思います。その時、そう言われるとそうかなとは思ったことがあっても、なぜそうなのかを考えられたことはなかったのではないでしょうか。 そこで、尊いとはどういうことを意味するのかをここで考えてみたいと思います。 まず第一に、尊いとは価値のあるものであると言う事を意味していると言えます。すなわち尊いとはそれ自体に価値があり、人々が欲しくなるようなものであると言えるでしょう。つまり、もしお金で換算できるとするならば大きな金額に相当することを意味していると思います。あるいは、あまりにも尊い場合にはお金に換算出来ないぐらいに価値があることすらあると思います。 例えば、もうすでに人類の宝物であると言えるレオナルド・ダヴィンチが描いたモナリザの絵は、値段がつけられないぐらいの価値があると言うことができるでしょう。なぜなら、この絵が持つ神秘性には独特のものがあり、もう二度と人類が描けるような絵ではないと思われるからです。 一方、人間の世界における物の価値というものはよくお金で換算して表現されます。例えば、机の値段は、机の材料となった木材の材料代と、それを組み立てた職人の人件費と、それを宣伝したり保管したり、あるいは運搬したりしたときにかかった費用と、それを販売した会社の利益の合計によって決まってきます。そして、その値段がその机がどれだけの価値を持つかを表す指標となっていくのです。 私は、現在ソフトウエアの開発をしておりますが、ソフトウエアの価値である値段も、そのほとんどがSEやプログラマーの人件費の総量によって決まってきます。 それをソフトウエア開発の世界では人月(にんげつ)といった単位で表現し、このソフトウエアは、何人が、何ヶ月かかって作り上げたものなのかその積でその価格が決められます。例えば、この製品は2人で6ヶ月、つまり12人月かかったとして、1人月の単価が100万円としますと、このソフトウエアの値段は1200万円ですというように決められていきます。 ですから、多くの人手がかかる製品ほど値段が高く、もちろんそれだけの価値があるということになります。何百人のSEやプログラマが何年もかけて開発を行う銀行のオンラインシステムが何百億円もの値打ちがあるということはここを根拠にして言われているのです。 そこで考えてみたいのですが、世の中の技術というものは時間がたてば、必ず以前よりもいいものが市場に出されていきます。 もう15〜16年前のことになりますが、初めて携帯電話が世の中に出された時は、その携帯電話は肩からバッグのような箱をぶらさげ、受話器を取り上げて通話をするというようなものでした。 それが、何年かすると片手で扱えるものが出てきて、次に電池も数日しか持たなかったものが待機だけだと1ヶ月も持つものが出てきて、さらにインターネットが可能となり、さらにさらに、現時点では写真や動画を撮ったり送ったりできるところまでに至りました。 このように技術の世界では、時間と人手をかけさえすれば必ずいいものが出来上がるという関係にあります。 しかしながら、先ほど例にあげましたモナリザの絵は、100人月、1000人月、1万、10万、100万人月かけても描くことは無理なのです。これは時間と人手という資源によってもたらされるものではないからなのです。 実は真理も同じなのです。いやそれ以上だとも言えます。なぜなら、真理は、それに加えて今までの経験的な延長線上に生み出されるものではないからなのです。 例えば、愛についての真理がそうです。愛には、「与えた愛は与えた人のものになる」という真理がありますが、この世の経験的な知識では、自分の持っているものを他人に与えたら、その分がその人から無くなっていくのであって、その人のものになって増えるどころか減るのが当たり前ではないかと思われるのです。 それはそうだと思います。今自分が持っている財布の中に3万円あるとします。もし、その中から一万円を出して他人に与えたら一万円減って2万円になるのが当り前ということになります。また、学校での算数の勉強で、3−1=2と答えなければ×になってしまいます。 しかしながら、たとえ物理の世界において「お札」が減ったとしても、それを包含するところの真理の世界では、その与えた「愛」はその人に対して倍になって事実返ってくるのです。それは相手からの感謝の気持ちと、宇宙の因果の法則である善因善果の理によって、すなわち、善いことをしたら善い報いがやってくるという法則によって「お返し」が来るのです。 このことは、経験則的には絶対に分からないことであり、学ぶしかないことなのです。この世で最高に頭がいいとされるノーベル賞を受賞した学者が、何千人、何万人集まって長年研究したとしても、生み出されることではありません。 ですから、簡単な一言ですが、「与えた愛は与えた人のものになる」(*1)という真理は、モナリザの絵、いやそれ以上に価値あるものであるといえます。 さらに、たったの一言ですが、「人生は一冊の問題集である」(*2)という言葉があります。この一言で、数え切れないぐらいの人々の人生観が変わり、以後、幸せになったという事実があります。これこそが、この真理がいかに価値を持っているかを証明しているものと言えるでしょう。事実、私もこの一言で救われたうちの一人なのです。 では、そういう真理をどのようにすれば人類が知ることができるのでしょうか。実は、それが預言者と言われる存在の意味なのです。 預言者と予言者とは違います。預言の文字のように、「あずかる」という意味です。では何を預かるのでしょうか。それは、神の言葉、つまり真理を預かる人のことを言うのです。 人類にとって、経験則的に研究を重ねても分からないその真理が、数千年、あるいは1億数千万年ぶりに人類に降ろされ伝えられることがあるのです。そういう偉大な預言者、いや救世主ともいうべき存在の降臨によって、人類への慈悲として神の言葉である「真理の言葉」が降ろされるのです。 それが救世主の降臨です。イエス様がイスラエルに降臨されたのと同じ、仏陀がインドに降臨されたのと同じ、いやそれ以上のことが現代に起きているということが、現代が稀有なる時代であるということの理由です。すなわち、今回のコラムの結論として、主のご生誕こそが人類に対して最高にありがたいことであり、また同時に最も尊いことであると言うことができると思うのです。(感謝) (*1)『人を愛し、人を生かし、人を許せ』P.38(幸福の科学出版)(*2)『常勝思考』P.196等(同) |
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●平成15年07月17日 価値のあるものとないもの |
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先回のコラムでは、真理はなぜ尊いのかということについて述べました。その中で、尊いということは価値があることを意味しており、それが、もし、お金に換算することができるならば大きな額になることも述べました。では、一体価値があるということはどういうことなのでしょうか。 そこで、今回は、「価値のあるものとないもの」について考えてみたいと思います。 (1)価値のあるもの では最初に、価値があると言われるものにはどういうものがあるでしょうか。これを考えてみたいと思います。 それにはまず、お金があげられるでしょう。また、それと同等に貴金属があります。また、土地や建物もそうですし、高級車やブランド品も価値があるという部類に入ると思います。 つまり、価値があるとは、お金あるいはお金に換算すれば、それなりの額になるものが価値があると、世に広く認識されているのではないでしょうか。 そこで、もう一度その意味について考えてみたいと思います。例えば、お金があれば、何でも欲しいものを買うことができますし、貴金属を持っていてそれを身につけていると嬉しいということがあります。また、広い土地や大きな建物があれば嬉しいですし、いい車やブランド品を持っていると、それだけで心がウキウキするものです。 そのように考えますと、価値があるとは表面的にはお金の額となりますが、もっと奥深く見ていきますと、その奥に「嬉しい」、つまり「幸福」という価値観があるように思われます。 例えば、ここに1億円のお金があったとしても、それで何も買えないとするならば紙くず同然になってしまいます。ですから、お金の額自体に価値があるのではなく、それでどれだけ自分に幸福をもたらせてくれるものなのかということが、つまり価値の基準になっているのではないかと思います。 すなわち結論として、価値があるということは、「それでどれだけ多くの人々に、どれだけの幸福をもたらすことができるのか」と言うその大きさが、それが持つところの価値(これを真理価値ともいいます)を表しているのではないかと思います。 では、この幸福という観点からもう一度、世の中に存在するものを見ていきたいと思います。 まずお金ですが、お金があれば多くの人々に食料や衣服、そして住居を提供することができます。そして、それによって多くの人々を幸福にすることができます。ですから、これはそれだけの価値があると言えます。 貴金属や高級車、ブランド品はどうでしょうか。幸福の大きさという観点から考えたならば、これらが個人の幸福の範囲に止まっているならば、それだけの価値しかないと言えるでしょう。たとえ、それを作るのに、多くの職人の手間や高い材料がかかり値段が高いとしても、ごく少ない人の幸福しかもたらさないとするならば、それだけの価値しかないと言えます。 従って、その基準から現在付けられている値段が妥当かどうかを考えれいいのではないかと思います。 10年余り前に、日本ではバブルの時代を経験しました。この時代からの教訓は、価値というものは、本来のあるべき姿に落ち着くものであるという学びでした。 例えば、銀座などでは土地の値段が坪1億円を超えたことがありましたが、どのように考えても1坪の土地で、1億円に値する幸福を生み出せるとは考えられないのではないでしょうか。 例えば、そこに何千階建てのマンションが建設できて、何千何万人もの人々が快適に住めて幸福になるならば、それもありうることですが、そうでない場合には、本来のあるべき姿に戻っていくというのが、この宇宙の法則でしょう。 そこで、人々を幸福にするという観点からもう一度価値あるものを見直していきますと、例えば、人々を幸せにする憩いの場や、公園、そしてリラックスできる環境や音楽などはもっとその価値が見直されてもいいのではないかと思います。 いや、これらには、もっと人々が将来お金をかけていくところだと言うことができるでしょう。さらに、今、値段がタダ、あるいはタダ同然となっている空気、水、あるいは自然の山や海などに対しては、もっと価値があるものとして考えられなければならないと思います。 最近、燃料電池を使った電気自動車など環境にやさしいエコ商品が高くても人気があるということは、だんだんと本来のあるべき姿になってきている証であるとも思われます。 さらに、もっと価値があるものは、「真理の言葉」(*1)でしょう。真理の言葉のたった一言で、人生が変わるのです。そして、その言葉は、一度聞いたならば、完全に忘れない限り自分に残っていきます。例えば、喉が渇いたときにコップ1杯の水をもらって飲んだとしても、しばらくするとまた喉が乾きます。でも、真理の言葉は、決して乾かないのです。(*2) ですから、どれだけ多くの人々にどれだけの幸福をもたらすかという観点から考えますと、聖書や仏典、さらに真理の書籍に含まれる真理の言葉にかなうものはないということが出来るでしょう。 (2)価値のないもの では、次に価値のないものについてを考えていきましょう。お金という観点から考えますと、道端に落ちている石ころや、ゴミなどは価値がないということになりますが、先ほどの「幸福」という観点から考えますと、幸福の逆である「不幸」がキーワードになってきます。 つまり、価値がないと言うことは、「人々を不幸にするものである」ということができます。 ですから、人々を不幸にする観点から考えますと、この世の中で価値がないものは、例えば戦争があるでしょう。あるいは、国民が自由に生活できない圧制や弾圧もあるでしょう。あるいは、不況や災害なども価値がないことになります。 その中でも多くの人々を一瞬にして殺してしまう核爆弾などは、最も価値のないものであるということができます。たとえ、その核爆弾の製造に何千億円のお金がかかったとしても、1円の価値もありません。いや、何千億、何兆、何百兆のマイナスの価値だとも言えるでしょう。 さらに、人々を迷わすところの間違った思想や宗教などは、ある意味で核爆弾を落とすよりも価値のないこと、つまり悪いことと言えると思います。 例えば、唯物思想は、ソビエト連邦と言う国を作り、地球の半分を汚染したように見えましたが、今や人々はその間違いに気づき、本来の価値あるものを求めて再出発しております。 ですから、思想や教えというものは、目に見えないので軽んじるところがありますが、物質以上に人々に影響を与えるものなのです。 でも反面、正しい真理を学ぶならば、それはお金や貴金属に換えることができないくらいの幸福を人々にもたらすものであるということができます。それは、時間が経たないと分かってこないので、なかなか認識に難しいところがありますが、現在、現証としてあちこちに現れてきており、否定できないものになっているのではないかと思います。 以上、価値のあるものとないものと題して述べましたが、幸福という観点から考えますと、また違った見え方がしてきたと言う人は、私一人だけではないのではないかと思います。(竹内) (*1)『永遠の仏陀』P.115〜;(*2)『永遠の法』P.184〜(幸福の科学出版) |
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●平成15年07月27日 そのままではよくない |
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先回のコラムでは、価値あるものとないものについて述べてみました。その中で、価値あるものと無いものとの区別の基準は、「どれだけ多くの人々に、どれだけの幸福をもたらすことが出来るのか」にある事を示しました。そして、一番価値のあるものとは、それが決して食べたり飲んだりしても無くならない「真理の言葉」にあることも述べました。 そこで、今回は「そのままではよくない」と題して、生きていく上で必要になることについてお話しをしたいと思います。 幸福の科学出版から出されている書籍の『悟りの挑戦(上)』P.210に、自然のままに任せると、悪いことのほうが多いのが人間の常なのです、とあります。つまり、そのままで良いなら苦労は無い訳で、真理も教えも必要ないという意味のことが書かれているのです。 これは、たったの一言の表現ではありますが、人間にとってこれは大変なことなのです。つまり、人間は自分のよいと思うままに生きていたならば、よくないということが書かれているのです。 その理由につては、大きな計らいがあることですから私には分かりませんが、しかし、このような仕組みになっていると言う事実は、知っておく必要があるのではないかと思います。 (1)そのままだったらどうなるか まず、そのままでいたらどうなるかを考えてみたいと思います。そもそも人間というものは、自分の体を全ての判断の出発点としています。 まず眼です。人間は、眼から入る映像を見て、まぶしいとか暗いとか、また、きれいだとか汚れているなどを感じ取っています。ですから、今までの人生で見てきたものが蓄積されて、見るものの判断の基準となっています。 ということは、逆に眼に見えないものはどう判断できるかです。実は、判断できないということです。ここに難しいところがあります。 次に耳です。人間は耳から入ってくる音や声を聞いては色々な判断をしています。例えば、犬が吠える声を聞いて、これは犬だと判断していますし、学校の先生の声を聞き、その話しの内容を理解して、知識を蓄積しています。 では、聞こえないものに対してはどうでしょうか。これも、見えないものと同じで判断のしようがありません。 次に、鼻です。鼻はもちろん香りを嗅ぐ器官です。カレーライスのにおいを嗅げば、今晩のごはんはカレーライスだということが分かります。また同様に、香りを感じないものに対しては、判断することはできません。 次に、舌です。これは、食べ物の味ということになります。カレーライスをかつて味わったことのある人ならば、カレーライスの味は分かりますが、食べたことの無い人には分からないでしょう。 もし、ここに未だバナナを食べたことがないと言う人に、バナナの味を説明しなければならないとするならば、どうされるでしょうか。私は、ギブアップです。私には、相手に分かってもらえる自信はありません。 次に、体の触感です。これも、同様に、今まで手や体で触れたものに対する感触は分かりますが、未だ触れたことのないものを判断することはできません。 そして、最後に頭脳です。これは、今までに述べた五つの感覚器官から伝わってくる情報を判断する器官と言っていいと思います。これも、先に述べた五つの器官に同じで、未だ経験したことのないものは判断のしようがありません。 以上を六根(*1)と言って、人間が生きていく上での判断の前提となるものと考えていいと思います。 そうしますと、そのままでいたならばそれらの感覚器官がいいと思う方向に、つまり、感覚器官の気持ちのいい方向に、自分が引っ張られていくだろうと言うことは、容易に想像がつきます。 例えば、眼ならば、もっと美しいものを見たい、異性を見たいとなりますし、耳ならば、もっと耳ざわりのいいものを聞きたい、いい音を聞きたいとなりますし、鼻ならば、もっと香りのいいものを嗅ぎたいとなります。さらに、舌ならば、グルメ通いをすることになりますし、体の感触ならば、もっと気持ちのいいものに触りたいとなり、結果的に感覚的に気持ちのいいものばかりを感じたいとなっていきます。 もうお分かりだと思います。そのままだと、感覚器官の欲望の向くままに人間は向かっていくことになります。 つまり、これは、動物の姿を意味しているのです。(地獄には、動物の姿になった人霊が多くいます) しかしながら、動物には本能というものがあって、それが歯止めとなって守られています。あの一番獰猛だと言われている百獣の王ライオンでさえ、獲物をお腹いっぱいに食べたときは、たとえ目の前においしい獲物が通ったとしても襲うことはありません。 しかし、人間は、いくら預金があっても、いくら蔵にお米があっても満足しないのです。かつて、お釈迦様が言われたように人間の欲望には際限がないのです。 ですから、そのままの感覚器官に任せますと、悪いほうに行ってしまうのが常となります。 (2)では、そのままの状態から脱するために では、そのままの状態からどのように脱出すればいいのでしょうか。 それは、先ほど述べた六根の感覚で感じることのできないものを知覚するしかありません。 眼なら、眼に見えないもの、つまり、あの世の世界を見ること。耳なら、耳に聞こえないもの、つまり、天使の言葉や教えを聞くこと。鼻なら、この世で感じることのできない香りである悟りの香りを嗅ぐこと。舌なら、この世で感じることの出来ない味である歓喜の世界を味わうこと。感触なら、この世にない感触である、高級霊界の肌触りを感じること。そして、それらから伝わってくるものを、総合的に頭脳ではなく魂で感じることです。 それには、まず真理を知るところから初めなくてはなりません。知らないことには、感じることもできないからです。 でも、真理がこの地上になければ知ることはできません。ですから、地上の人間が完全に目に見えない世界を忘却してしまわないように、数千年に一度、光の大指導が地上に肉体を持って生まれ、真理を説いて、人々に伝えるというシステム(*2)があるのです。 人間というものは、簡単に分かってしまうと、あまり身につかないものですが、失敗を重ねて苦労して得たものは、自分に深く残っていくものです。 ですから、あえてこのようなシステムを採られているのではないかとも思えます。そう言えば、試験の問題だって、○だったものよりも、間違って×をつけられた問題のほうがよく覚えているものですからね・・・。 そうしますと、少しうがった見方かも知れませんが、この地上に、何もかも忘れて肉体の感覚器官を持って生まれて来る事と、真理を知るということは、「必須の組み合わせ」になっているとも考えることが出来るのではないでしょうか。 ここに、私は偉大なる仏の慈悲を感じざるを得ません。 以上、今回はまた違った切り口で、真理の存在の意味を考えてみました。いかがだったでしょうか。では次回は、コラムの写真も変えてまた出てくるつもりです。(竹内) (*1)『信仰告白の時代』P.98(幸福の科学出版);(*2)『太陽の法』P.92(同) |
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